- 女
- ひさしぶりに外へ出ると、しんと冷えた夜の空気はいつの間にか消えていて。
なま暖かい風がのったりと吹いていた。
夜桜が白く闇に浮かんでいた。
聞き覚えのある低い音が、遠くから聞こえてきた。
のぼり切った坂の向こうに月が見えた。
- 月
- ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…
- 女
- 道の向こうから、一心に坂道を転がって来る月が見えた。
- 月
- ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…。
- 女
- どこも傷んでいない、どこもへこんでいない。
- 月
- ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…。
- 女
- かんぺきなまんまるだった。
- 月
- ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…。
- 女
- 同じ速さで、同じリズムで、たんたんと、月は転がって来た。
- 月
- ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…。
- 女
- 輪郭はほんとうに大きくて、曲面は鈍く銀色に光っていた。
- 月
- ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…。
- 女
- 月が道をふさいでいるので、向こう側は何も見えなかった。
- 月
- ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…。
- 女
- ………そうだった。
- 月
- ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…。
- 女
- こんな月の夜がときどきあった。
- 月
- ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…。
- 女
- すっかり忘れていた。
- 月
- ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…。
- 女
- ひとつきに一回。月はこんなかたちになる。
- 月
- ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…。
- 女
- だけど、なかなかこんな風に会えない。
- 月
- ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…。
- 女
- 空を見るのを忘れてるから。
- 月
- ごろん、ごろん、ごろん、…ごろん。(だんだんに大きくなり、停止する)
- 女
- 月は転がるのをやめて、私の目の前で止まった。路沿いにならんだ桜の木が、月明かりに照らされてぼんやりと光っていた。
- 間
- 女
- こんばんは。
- 月
- …。
- 女
- 満月だったんですね。今夜。
- 月
- …。
- 女
- 桜が開きましたね。
- 月
- …。
- 女
- あなたがいると、夜の桜がきれいに見えます。
- 月
- …。
- 女
- おひさしぶりです。
- 月
- …。
- 女
- …わかってます。ひとつきに1回、あなたは必ずこんな形になる。
- 月
- …。
- 女
- 私がずっと忘れてただけ。
- 月
- …。
- 女
- 今夜誰かに会うなんて思わなかったから。
- 月
- …。
- 女
- あなたはいつも、そんな夜にやってくる。
- 月
- …。
- 女
- わかってます。ひとつきに1回、あなたは…。
- 月
- …。
- 女
- 覚えてますか?私のこと。
- 月
- …。
- 女
- 覚えてないかもしれません。あなたはいろんな人に会うから。
- 月
- …。
- 女
- だけど、………………私は、覚えてます。
- 月
- …。
- 女
- いつもは忘れてるけど、会ったときだけ思い出します。
- 間
- 女
- 夜中の校庭をごろんごろん横切っていくあなたを、屋上から見ていた夜。
- 月
- …。
- 女
- 踏切の向こうに、あなたを見つけて立ち止まった夜。
- 月
- …。
- 女
- …帰るところがなかった夜。
- 月
- …。
- 女
- 見上げると真っ暗な闇があって。
まんまるなあなたはそうやって一心に転がっていました。
- 月
- …
- 女
- あなたの周りはぼんやりと明るくて。
- 月
- …
- 女
- だけど輪郭はくっきりとかんぺきにまるかった。
- 月
- …。
- 女
- 世の中にこんなにまんまるなものがあるなんて。
- 月
- …
- 女
- なんだかね。それがとっても可笑しくて。
- 月
- …。
- 女
- 偶然だったんでしょうけど。あの夜も、あの夜も。
- 月
- …
- 女
- だってあなたがまんまるになるのはひとつきに1回だけ。
それもいつも決まった夜に。
- 月
- …
- 女
- でもね。偶然でもまんまるだった。あの夜も。あの夜も。
- 月
- …。
- 女
- こんばんは。って私は言ったけど。
- 月
- …。
- 女
- あなたは何も答えてくれなかった。
- 月
- …。
- 女
- あの夜も。あの夜も。
- 月
- …。
- 女
- 無愛想に。
- 月
- …。
- 女
- あなたに会ったっていうことは…。私は今夜、また空を見てたんでしょうか。
- 間
- 女
- 私は、それ以上話しかけるのをあきらめた。……気がついたのだ。そこはすれ違うには狭すぎる道だった。壁に張り付くようにして、月のために道を空けた。
- 月
- ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…。
- 女
- 月は転がっていった。先は下り坂だ。だけど同じ速さで、だけど同じリズムで、月は同じように転がっていった。大きな音を立て、一心に転がっていった。
- 月
- ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…
- 女
- 音は少しずつ小さくなっていった。あたりはまた、少しずつ暗くなった。
- 女
- 銀色のまんまるがだんだんにだんだんに小さくなって、闇の向こうへ消えていくのを。
…見えなくなるまで見ていた。音だけはいつまでも耳に残って離れなかった。
あの夜がそうだったように。
あの夜がそうだったように。
こんな月夜がときどきあった。
世の中に、あんなにもまんまるなものがあったのだということを、
ふっと思い出す夜。
- 女
- 月のいなくなった道を、ゆっくりゆっくり歩いた。
桜はまだほんのりと白かった。
ごろん、ごろん、ごろん、ごろん、
帰ってぐっすり眠ろう。あの音を聞きながら…。
…………こんな月夜がときどきある。
……………………………