ひさしぶりに外へ出ると、しんと冷えた夜の空気はいつの間にか消えていて。
なま暖かい風がのったりと吹いていた。
夜桜が白く闇に浮かんでいた。
聞き覚えのある低い音が、遠くから聞こえてきた。
のぼり切った坂の向こうに月が見えた。
ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…
道の向こうから、一心に坂道を転がって来る月が見えた。
ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…。
どこも傷んでいない、どこもへこんでいない。
ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…。
かんぺきなまんまるだった。
ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…。
同じ速さで、同じリズムで、たんたんと、月は転がって来た。
ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…。
輪郭はほんとうに大きくて、曲面は鈍く銀色に光っていた。
ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…。
月が道をふさいでいるので、向こう側は何も見えなかった。
ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…。
………そうだった。
ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…。
こんな月の夜がときどきあった。
ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…。
すっかり忘れていた。
ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…。
ひとつきに一回。月はこんなかたちになる。
ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…。
だけど、なかなかこんな風に会えない。
ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…。
空を見るのを忘れてるから。
ごろん、ごろん、ごろん、…ごろん。(だんだんに大きくなり、停止する)
月は転がるのをやめて、私の目の前で止まった。路沿いにならんだ桜の木が、月明かりに照らされてぼんやりと光っていた。
こんばんは。
 …。
満月だったんですね。今夜。
…。
桜が開きましたね。
 …。
あなたがいると、夜の桜がきれいに見えます。
…。
おひさしぶりです。
…。
…わかってます。ひとつきに1回、あなたは必ずこんな形になる。
…。
私がずっと忘れてただけ。
…。
今夜誰かに会うなんて思わなかったから。
…。
あなたはいつも、そんな夜にやってくる。
…。
わかってます。ひとつきに1回、あなたは…。
…。
覚えてますか?私のこと。
…。
覚えてないかもしれません。あなたはいろんな人に会うから。
…。
だけど、………………私は、覚えてます。
…。
いつもは忘れてるけど、会ったときだけ思い出します。
夜中の校庭をごろんごろん横切っていくあなたを、屋上から見ていた夜。
…。
踏切の向こうに、あなたを見つけて立ち止まった夜。
…。
…帰るところがなかった夜。
…。
見上げると真っ暗な闇があって。
まんまるなあなたはそうやって一心に転がっていました。
あなたの周りはぼんやりと明るくて。
だけど輪郭はくっきりとかんぺきにまるかった。
…。
世の中にこんなにまんまるなものがあるなんて。
なんだかね。それがとっても可笑しくて。
…。
偶然だったんでしょうけど。あの夜も、あの夜も。
だってあなたがまんまるになるのはひとつきに1回だけ。
それもいつも決まった夜に。
でもね。偶然でもまんまるだった。あの夜も。あの夜も。
…。
こんばんは。って私は言ったけど。
…。
あなたは何も答えてくれなかった。
…。
あの夜も。あの夜も。
…。
無愛想に。
…。
あなたに会ったっていうことは…。私は今夜、また空を見てたんでしょうか。
私は、それ以上話しかけるのをあきらめた。……気がついたのだ。そこはすれ違うには狭すぎる道だった。壁に張り付くようにして、月のために道を空けた。
ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…。
月は転がっていった。先は下り坂だ。だけど同じ速さで、だけど同じリズムで、月は同じように転がっていった。大きな音を立て、一心に転がっていった。
ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…
音は少しずつ小さくなっていった。あたりはまた、少しずつ暗くなった。
銀色のまんまるがだんだんにだんだんに小さくなって、闇の向こうへ消えていくのを。
…見えなくなるまで見ていた。音だけはいつまでも耳に残って離れなかった。
あの夜がそうだったように。
あの夜がそうだったように。

こんな月夜がときどきあった。
世の中に、あんなにもまんまるなものがあったのだということを、
ふっと思い出す夜。
月のいなくなった道を、ゆっくりゆっくり歩いた。
桜はまだほんのりと白かった。
ごろん、ごろん、ごろん、ごろん、
帰ってぐっすり眠ろう。あの音を聞きながら…。

…………こんな月夜がときどきある。
……………………………