- 女(N)
さよならを言って外へ出た。
見慣れた風景のはずなのに、何もかもが違って見えた。
坂道をだらだらと下る。
バス停でバスを待つ。最後のバスを待った。
向かいのバス停でバスをおり、初老のが
こちらへ歩いてきた。
男は女に気づいてふと笑いかけた。
- 女
- あ…
- 男
- こんにちは。あったかくなりましたね。
- 女
- …そうですね…。
- 男
- よく、お会いしますね。
- 女
- …そうですね。
- 男
- なかなか、時間通りに来ませんからね。
- 女
- …。
- 男
- 若い人にはめんどうでしょう。どこへ行くにもバスで15分。
- 女
- バスに乗るの、好きですから。
- 男
- そうですか。
- 女
- …
- 男
- 近くにお住まいですか?
- 女
- いえ…………。引っ越すんです。………今日。
- 男
- ああ。そうなんですか…。
- 女
- ええ。
- 男
- そうか…………。
- 女
- 何か?
- 男
- 残念ですね。
- 女
- え?
- 男
- いえ。ここであなたに会うのがちょっと楽しかった…。
- 女
- ?
- 男
- 4年前。初めてここでお会いした時から…
- 女
- …。
- 男
- ああ。いや…、すみません。
- 女
- …4年前?
- 男
- ええ。たしか4年前。ちょうど今頃ですよ。こんな風にあったかい日でしたから。
- 女
- そんな前のこと…(覚えてるんですか?)
- 男
- 覚えてませんか?
- 女
- え?
- 男
- 私に道を尋ねたの…。
- 女
- え?
- 男
- バスを降りたあなたが向かいのバス停から歩いてきて。困った顔で、あたりを見回して。
私を見つけると近づいてきて、小さな声で尋ねました。
「あの…ここは何丁目なんでしょうか?」
- 女
- あの…
- 男
- 私が道を説明すると、あなたは大急ぎで、走ってその坂を上っていきました。
- 女
- …そう…ですか…。
- 男
- 覚えてないですか?(笑っている)
- 女
- すみません。どうもありがとうございました。
- 男
- …いえ。ずっとお礼をいいたかったのは私の方ですから。
- 女
- え?
- 男
- あの時、あなたが地図を片手にバスを降りてきたとき…(照れ笑いをしている)
- 女
- …?
- 男
- 亡くなった家内のことをふと思い出しました。
- 女
- ???
- 男
- 会ったばかりの頃、よくバス停で待ち合わせをしたんです。いつもなぜかきっちりバス3台遅れてやってくる彼を、私はバス停で待っていました。
- 女
- …
- 男
- 冬の寒い日はつらくてね…。
結婚して、もう外で待ち合わせをする必要がなくなったときは、ほっとしました。
- 女
- (笑っている)
- 男
- ずっと忘れてたんですよ。そんなこと。
- 女
- …
- 男
- もう30年も。
- 女
- …。
- 男
- 一度だって思い出したりしなかった。一緒に暮らしている間も、いなくなってからも。
- 女
- …
- 男
- 一緒にいるあいだは何も思い出したりしなかったし、死んだあとは最後の時間ばかりが頭の中にありました。
- 女
- …
- 男
- あの日偶然あなたにここで会ってから。やっと思い出すようになりました。知り合う前のこと、会ってからのこと、結婚したばかりの頃のこと…。
- 女
- …
- 男
- それから。春が来るのが苦にならなくなりました。
- 女
- 亡くなられたのは…。
- 男
- 3月のはじめです。
- 女
- …
- 男
- ですけど、はじめて会ったのもこの季節でした。
- 間
- 女
- 私…奥さんに似てますか?
- 男
- いえ。あなたのほうがずっときれいですよ。
- 女
- (笑う)どうもありがとうございます。
- 男
- あなたがきっかけをつくってくれました。どうもありがとう。
- 女
- 偶然です…。私は何も…。私も、その日……
- 遠くから、バスが近づいてくる。
- 男
- …バスが来ましたよ。
- 女
- はい。
- 男
- それじゃあ。気を付けて。……お元気で。
- 女
- ありがとうございます。
- 男はバス停に背を向けて歩き出す。
バスが止まる。ドアが開く。はバスに乗り込む。
舗装された広い道をバスはゆっくりと下っていく。
女(N)バスは駅へ下る。バス停はどんどん遠くなる。
これは「行きのバス」?それとも「帰りのバス」?
いろんなものがどんどん、どんどん遠くなっていった…。
初めてこのバスに乗った日があった。
「はじまりの日」が確かにあった。とてもあたたかい日だった。
でもそれを。今はどうしても思い出せない。何よりも遠くにある。
いくつ目かの春と一緒に、ふっと戻ってくるんだろうか。
そのときわたしはもう、別の「はじまりの日」の中にいるだろうか。
失くした時間は「おしまいの日」で始まって、
「はじまりの日」で終わるのかもしれない。
春風の中。バスは坂道を下っていく。
- おしまい