- 登場人物
- 河合和雄(男)
石川綾子(女)
- 「有難うございました」というおでん屋のおやじ殿の声と、ほんの少し暖かな店内の声、一瞬。がらがらと扉の閉まる音。
- 綾子
- えーっと、いくらでした?
- 河合
- あ、2,500円。
- 綾子
- ああ、じゃ……。
- 、鞄のジッパーを開け、財布を取り出そうと、
- 河合
- ああ、いいよ。
- 綾子
- 何でですか。
- 河合
- と言いたいところだが……。
- 綾子
- ええ、もちろん。
- 河合
- あ、いや、じゃなくておごるよ。
- 綾子
- いやいいですって。
- 河合
- いや、そうじゃなくてさ。いやあるんだけどさ、銀行に。でも今日はおろすの忘れてて。
- 綾子
- ええ。だから、
- 河合
- あ、じゃあ次の店で。
- 綾子
- え?
- 河合
- だってお腹すいてるだろ、まだ。
- 綾子
- ああーっと……ええ、そうですね。はい。じゃあ次の店で。
- 河合
- うん。
- 、自転車の鍵を開ける。
- 河合
- あのさ…で、必ず返すからさ。もし次の店で足りなかったら。
- 綾子
- ええ、分かってますよ。
- 河合
- もう、本当にごめんな。いや、あるんだよ、銀行には。
- 綾子
- ええ、分かりましたって。
- 河合
- いや、本当に。
- 綾子
- ええ。
- 自転車の音と二人の歩きだす音。
- 河合
- いや、急だったからさ。
- 綾子
- ええ。
- 河合
- だってずっと電話止まってたでしょ。
- 綾子
- 止まってるの、気付かなくて。
- 河合
- ああ。でもかけないの?
- 綾子
- え?
- 河合
- あ、いや、だって、あれってかけるときに気付くでしょ。あれ、止まってるなぁって。
- 綾子
- ああ…そうですよね。ってことはここ2,3日電話かけてなかったんですね、多分。
- 河合
- ああ。
- 綾子
- で、今朝、バイト先で言われて分かったんですよ、電話止まってるって。
- 河合
- うん。
- 綾子
- それで急いで払いに。
- 河合
- なるほど。それでさっきかけたときはつながったんだな。
- 綾子
- ええ。6時半に払いました、コンビニで。
- 河合
- おう。6時20分にかけたときは「お客様の都合でおつなぎできません」と言われた。
- 綾子
- ああ、それはもう、かたじけないかぎりで。
- 河合
- いやいや、あっれー。
- と、数十枚のコイン(主に10円玉)が道路に落ちる音。
- 綾子
- ああ。
- の自転車も止まる。
- 河合
- 悪い悪い。
- 綾子
- あ、あそこにも。
- 河合
- え、どこ?
- 綾子
- ほら、そこ。そこの、ガードレールのこうなったとこに。
- 河合
- え、どこどこ?
- 綾子
- あの、ほら。
- 河合
- いや、これ、ガムだよ。ガムがくっついてるんだよ…と言おうとした)。
- 綾子
- いや、そこじゃなくて、その、もっと右。
- 河合
- え、右?
- 綾子
- 行き過ぎ。そのもっと、手前。
- 河合
- 手前。
- 綾子
- そのまま、ゆっくりゆっくり移動して。
- 河合
- 移動して…ああ、あった。
- 綾子
- はい。
- 河合
- すんません。
- 綾子
- (笑いつつ)何でそんなに一杯10円玉持ってるんですか。
- 河合
- いや、意外に一杯あるんだよな。
- 綾子
- ええ、そのようですけど。
- 再び、二人、歩き出す。
自転車の音。
- 河合
- いや、タバコくらいは買えるぞ。
- 綾子
- ええ。
- 河合
- いやさ、だって急だったじゃない。
- 綾子
- え?
- 河合
- あ、いや、だってこういうことってめったにないだろ?
- 綾子
- こういうこと?
- 河合
- ほら、何かの集まりとかのついでに飯喰ったり、飲んだりはしたけど、わざわざ飯喰いに…なんてのはめったにないし。
- 綾子
- ああ。そういやそうですね。
- 河合
- それに、俺がさそうときは、財布の中身みてからだしね。
- 綾子
- いや、そんな私もだしますよ、そんな。
- 河合
- いや、そうじゃなくてさ。ほら、何かあんまり入ってないと不安だろ?こう…何となくさ。
- 綾子
- ああ、はい。
- 河合
- うん。だからね。
- 綾子
- あ、いやね。何か家に帰ったら、さんからメッセージ入っててね。
- 河合
- うん。
- 綾子
- 「あ、つながりましたか。よかったよかった。それだけです。」っていう
- 河合
- ああ、うん。
- 綾子
- だから、ちょっと嬉しかったので、お電話しました。
- 河合
- うん。
- 綾子
- (笑いつつ)でも全然大丈夫だったんですね。
- 河合
- え?
- 綾子
- ほら、おでん屋さん。
- 河合
- ああ。おい、全然大丈夫だったぞ。
- 綾子
- ね。
- 河合
- だってビール1本に。おでんを…いくつ喰ったっけ?
- 綾子
- えーと最初にこんにゃくとがんもとごぼ天と。
- 河合
- ロールキャベツね。
- 綾子
- ああ、そうそう。で、そのあと、ちくわを2本と大根とじゃがいもだから。
- 河合
- よく覚えてるな。
- 綾子
- ええ。何せ私も落ち着かなかったので。
- 河合
- だよなぁ。財布の中身が不安だと、やっぱりなぁ。
- 綾子
- 何か、考え考え食べるって感じでしたね。
- 河合
- うん。ってことはだよ。ビールがまぁ500円くらいだとして。
- 綾子
- 相場ですね。
- 河合
- うん。残りが2,000円だから。
- 綾子
- 8個ですよ、おでん。
- 河合
- うん。ってことは2,000割る8は、
- 綾子
- あ、250ですね、1個。
- 河合
- ああ。
- 綾子
- あ、安いですね。
- 河合
- いや、安いかどうかはあれだけど、でもまぁそこそこだな。
- 綾子
- ええ。だって、落ち着く店でしょ?
- 河合
- うん。本当にちゃんとしてるしね、店も。店のおじさんも。
- 綾子
- そう。落ち着く雰囲気だし。
- 河合
- うん、まぁでも落ち着かなかったけどね。
- 綾子
- (ニヤリとしつつ)ええ。まぁそれはこちらの事情ってことで。
- 河合
- まぁな。
- 綾子
- ええ。すいません。リサーチ不足で。
- 河合
- いやいや…。
- 綾子
- でもメニューに値段が書いてないんですもんね。あせった。
- 河合
- いやいや。でも前に払ったときのことは覚えてないの?
- 綾子
- ああ……いや昔OLやってたときの先輩と行ったんですよ。だから、石川はいくらでいいよ、みたいな感じだったから。目安がどうも……。
- 河合
- ああ、なるほどね。
- 綾子
- ええ、それにちょっと酔っぱらってて
- 河合
- え、また、酔ったの。
- 綾子
- ああ……はい。すいません。
- 河合
- いや、まぁいいけど。
- 綾子
- いや、あれから気を付けてますよ。
- 河合
- 本当かよ。
- 綾子
- ええ。覚えてられなくなるまでは飲みますまいと。
- 河合
- よく言うよ。
- 綾子
- (笑いつつ)いや、本当にあれからは気を付けてますよ。
- 河合
- 今にとんでもない目に合うぞ、お前。
- 綾子
- 何ですか、とんでもない目って。
- 河合
- いや……いや石川と飲むやつってさ…、ねぇその先輩って男?
- 綾子
- え?
- 河合
- その、前の会社の先輩。今のおでん屋で飲んだっていう。
- 綾子
- ああ…ええ、そうです。
- 河合
- ほら。
- 綾子
- え、何ですか?
- 河合
- だからお前と飲んでる男は……その何だ?いい奴が多いってこと。
- 綾子
- ああ。そうですね。みんな親切ですよ。
- 河合
- (あきれつつ)親切?
- 綾子
- ええ、みんなすごく親切です。
- 河合
- あのなぁ。
- 綾子
- はい?
- 河合
- いいよ。別に。
- 綾子
- ああ、はい。
- しばし、自転車を押している音。
その横を歩く。
しばし無言。
- 綾子
- でも3ヵ月以上前なんですね。
- 河合
- え?
- 綾子
- あの……ほら、あれから。
- 河合
- ああ。
- 綾子
- あのときはまだ夏だったから。
- 河合
- ああ…うん。
- 綾子
- ええ。
- 河合
- うん。
- 綾子
- もう、すっかり…季節変わっちゃって。
- 河合
- うん。石川と見た月も、もうすっかり冬の月ですわな。
- 綾子
- ……はい。
- また、二人、しばし歩く。
- 綾子
- それ、似合いますね。
- 河合
- え?
- 綾子
- その、ダウン。赤の。
- 河合
- あ、そう?似合う?
- 綾子
- うん。
- 河合
- それはそれは…いや、悪いもんじゃないんだけどさ。
- 綾子
- ええ、すごくいい感じですよ、似合ってて。
- 河合
- うん。いや親父のかったらあんまり金、残んなくてさ。こんなのになった。
- 綾子
- …え?
- 河合
- あ、いや親父に送ったんだよ。ちょっといいやつな。
- 綾子
- へーえ。
- 河合
- あ、俺ね。こう見えても結構、親孝行なんだよ、まぁ見えないだろうけど。
- 綾子
- (笑いつつ)何も言ってませんよ。
- 河合
- (笑いつつ)ああ、うん。
- 綾子
- ええ。
- 河合
- でさ、おやじに送ったら、手紙がきてな。
- 綾子
- おっとう。
- 河合
- 何か毎日ジョンの散歩に着ていますだってさ。
- 綾子
- へーえ。いいですね。
- 河合
- 何で。よくないよ。
- 綾子
- どうしてですか?
- 河合
- だって、俺はものすごーく奮発して買ったんだよ。だから、着るなよ、犬の散歩なんかに。
- 綾子
- (笑って)いやそれくらい毎日着てくれて、いいじゃないですか。
- 河合
- 何で。すごくいいもんなんだぞ。
- 綾子
- ああ、おでかけ用なんですね、所謂(いわゆる)。
- 河合
- そうそう着るなって言うの、ジョンの散歩なんかに。
- 綾子
- (笑って)ああ。
- 河合
- 全くどいつもこいつも人の気持ちが分かってない。
- 綾子
- (笑って)え、どいつもこいつも?
- 河合
- (溜息をつきつつを見て)はぁー。ああ、はいはい。
- 綾子
- え?
- 河合
- いや…いいです。
- また、しばし歩く。
- 綾子
- 優しいんですよね、本当に。
- 河合
- え、何?
- 綾子
- いや…あの…まぁ、さんは。
- 河合
- 何だ、そりゃ。
- 綾子
- いや、本当に。
- 河合
- ああ、まぁな。俺はかなり優しいぞ。お前の言うところの…まぁ親切な。
- 綾子
- だから多分、関わった人はみんなちょっと嬉しくなって…でもだからどういうことなんだろうって余計に、いろいろ考えてしまうんでしょうね、きっと。
- 河合
- ……えーと。んん?
- 綾子
- …ちょっと距離を計りかねてしまう。
- 河合
- え?
- 綾子
- うん、そう。
- 一瞬の間
- 河合
- それは……どういう意味だ。
- 綾子
- え?
- 河合
- いや…。
- 綾子
- いや、ただ何となくそう思ったから…。
- 河合
- いや…そうじゃなくて。
- 綾子
- え?
- 河合
- いや……石川、お前また前みたいに酔っ払ってないよな。
- 綾子
- ビール2杯ですよ、酔うわけないじゃないですか。
- 河合
- だよな。
- 綾子
- 何ですか。
- 河合
- いや、お前の方こそ、どうしていいか分からんことを言うからさ。
- 綾子
- え?
- 河合
- あ、いや…。
- 綾子
- ……。
- 河合
- ……。
- 綾子
- もしかしたら、まだふっきれてないのかもしれないですね。
- 河合
- え?
- 綾子
- うん、そうかもしれない。もしかしたらそうかもしれません。
- 河合
- ……ええ?
- 綾子
- (ふいに)ねぇ、これからどこ行きます?
- 河合
- え?
- 綾子
- だってまだお腹すいてるでしょ?
- 河合
- ああ…あ、うん。
- 綾子
- なんか、気兼ねなくがんがん食べたいですね。
- 河合
- ……ああ…。
- 綾子
- でもできたらもっとおでんが食べたい気も、
- 河合
- だったらうち来るか。
- 綾子
- え?
- 河合
- いや、コンビニでおでん買ってさ。うちすぐ近くだから。
- 綾子
- ……。
- 河合
- いや、まぁうちじゃなくてもいいが。
- 綾子
- いや……はい。
- 河合
- え?
- 綾子
- はい。
- 河合
- うん…。
- 二人、微妙な距離にゆられながらの家へと向かう夜だ。
- おしまい