- 山の朝の音。たとえば鳥の声。せせらぎの音。
さわやかである。絵に描いたようなキャンプの朝。
テントをガサガサいわせて、女が目ざめる。
- 女
- どうしちゃったのかな、あたし。いつの間にか眠っちゃってたみたい。
- 男
- おはよう。よく眠れたかい?
- 女
- ええ、何だか眠っちゃってたみたいね。
- 男
- 昨日、かなり歩いたからね。つかれてたんだよ。
もうすぐごはん炊けるから…。
- 女
- ごはん?
- 男
- うん。飯盒から湯気がでてるだろ?ほら。もうすぐだよ。
- 女
- あなた……お米持って来てたの?
- 男
- うん。
- 女
- どうして?
- 男
- どうしてって、お米がないと、ごはんが炊けないじゃないか。
- 女
- 少し変じゃない?日帰りの予定だったんでしょ私達。
- 男
- ああ。
- 女
- じゃあどうして、お米とかテントとか持って来てるの、あなた。
- 男
- だから、昨日も言ったじゃないか。
山のぼりは何が起こるかわからないから、もしもの時にそなえていろいろ持って行くもんなんだって…。
ゆうべ、僕がテントを持ってるって言ったら君、僕の手をとって「すごいわ、あなたって」って言ってくれたじゃないか。
- 女
- ええ、ゆうべは、すごくつかれてて、どこでもいいから横になって眠りたかったの。 あなたがその大きなリュックから、テントをとり出した時、本当にうれしかったわ。
- 男
- ね。準備をちゃんとしとくと、もしもの時も安心なんだよ。
- 女
- でもあなた、地図やコンパスは忘れて来ちゃったんでしょ。
- 男
- ごめん。ついうっかりね。
- 女
- ふうん。
- 男
- ええと、ごはんは炊けたようだから次はと…。
- 女
- な、な、なにそれ?
- 男
- うん。こうやって、塩コショーをふりかけてね。
- ジューと、鉄板でステーキが音を立てる。
- 男
- ああ、いい音だ。
- 女
- なによ、それ!
- 男
- サーロインステーキ。
- 女
- ス、ステーキ?
- 男
- いい肉なんだよ。これ。
- 女
- いったいどういう事なの?
- 男
- だってゆうべ君、食欲ないっていってただろ?
だからゆうべの分が今朝の食事になっちゃったんだよ。
- 女
- それ非常食なの?
- 男
- うん。
- 女
- 非常食っていったらもっと簡単なものでいいんじゃないの?
チョコレートとか、インスタントラーメンとか…。
- 男
- 体に悪いよ。
- 女
- え?
- 男
- そういうものには、添加物とかが入ってて体に悪いんだよ。
山のすがすがしい空気にそぐわないと思わないかい?
- 女
- 体に悪いとか、そういうことじゃないでしょう。
遭難してる時に添加物がどうのこうの言う人はいないわよ。
- 男
- 遭難?僕達は遭難してるわけじゃないよ。
- 女
- じゃあ今、私達はどういうことになってるの?
- 男
- 少し道にまよってるってところだろう。
- 女
- でも、そう思ってるのは私達だけかも知れないわよ。
- 男
- どういうこと?
- 女
- 私、会社には日帰りで山登りに行きますって言って来たのよ。
- 男
- え?!会社に山に登るって言って来たの?
- 女
- ええ。きっと今ごろたいへんな事になってるんじゃないかな。
今朝、出社するはずの私が連絡もなく休んじゃってるし。
捜索隊とかが出ちゃったりして…。
- 男
- あ、焼けすぎちゃうかな…。
- 女
- どうしたの?どうしてガスを弱めたりするの?
- 男
- うん。肉がこげちゃいそうなんだ。煙が出ちゃってるだろ?
煙が出ちゃまずいよ。
- 女
- 煙かぁ…。たき火をして位置を知らせたらどうかしら。
- 男
- たき火はだめだよ。
どの山でも、指定されてる所以外のたき火は禁止されてるんだ。
- 女
- 今は、そういうことを気にしてる場合じゃないのよ。
生きるか死ぬかの瀬戸際なのよ。
- 男
- そんな大げさな。
- 女
- 大げさじゃないかも知れないわよ。
昨日、登山道とまちがえてけもの道をかなり歩いたわ。
ササヤブをかきわけて、谷をいくつも渡ったじゃないの。
とんでもない山奥に分け入ってるんじゃないかしら、私達。
- 男
- うん。それはそうだろう。
- 女
- このままじゃ帰れないわよ。
- 男
- 帰れないかも知れないけど、食料はたっぷりあるから、だいじょうぶだよ。
- 女
- たっぷりって?
- 男
- このリュックにたっぷり入ってるんだ。
エビとか、ハマグリとかもあるから、パエリアだって作れるし、いざとなったら木の実とか…。
- 女
- 木の実?
- 男
- うん。もうすぐ秋になるから、トチの実とか、キノコも出てくると思うんだ。
- 女
- ……。
- 男
- 冬はもちろん、寒くてきびしいと思うよ。
でも、何とかなるよテントもあるし。
昨日みたいに 二人で体をあたためあって春を待てばいいんだよ。
- 女
- ちょっと待って…あなた、ひょっとして帰りたくないの?
- 男
- …この山、なかなかいい山だと思わないか。
人間が作った物なんかどこにも見当たらない原始そのものの森だよ。
大昔の人間達は、こんな森にいだかれてくらしてたんじゃないかな。
- 女
- 会社はどうするの?
- 男
- 会社は、辞めたよ。
- 女
- やめた?!
- 男
- うん。アパートも引きはらったし、何もかも整理して来たんだ。
- 女
- それじゃあなた…最初から帰るつもりはなかったのね。
- 男
- うん。
- 女
- どうしちゃったの?
- 男
- うん。
なんとなく、ゴミゴミした街の中で生活するのがいやになっちゃって…
君はどうする?
- 女
- どうするって?
- 男
- 俺といっしょにここでくらしてみないか?
- 女
- そんな事できるわけないじゃないの。
- 男
- できるよ、何とかなるよ、きっと。自然のめぐみで生きてゆくんだよ。
すがすがしい毎日が送れるよ。
- 女
- ……。
- いきなりヘリコプターの音が近づいてくる。
- 男
- あ。
- 女
- ヘリコプターじゃないの?私達を捜してるヘリコプターよ、きっと。
- 男
- 逃げよう。ナミエ。
- 女
- え?逃げる?
- 男
- テントをたたんで、谷に逃げ込めば見つからないよ。
- 女
- ちょっと待って、今考えてるのよ、どうするのか…。
- 男
- ナミエ…。
- ヘリコプターの音、大きくなる。
- 女
- あ、見つかったんじゃない?手をふってるわ。
- 男
- ああ、誰かこっちを見て手をふってるな。
- 女
- 子供だわ。小学生くらいの子供よ。
どうして捜査隊に子供がまざってるのかしら。
- ヘリコプターは行ってしまう。
- 男
- 行っちゃったよ。
- 女
- ……これ、見て。
- 男
- コオロギ?
- 女
- コオロギじゃないわよ。よく見てよ。
- 男
- う、うわっ!こいつら、台所に出てくるあいつじゃないか。どうしてこんな所に。
- 女
- あっちにも…こっちにも…。
- 男
- そんなバカな。
- 女
- ねぇ、ここって、本当に原始そのものの森なの?
- 遠くから拡声器の声がきこえる。
「えー、子供天国キャンプツアーに参加されているみなさん。
ゴミは、3つの袋に分別して出して下さい。よろしくお願いしまーす。」
その後、子供達のはしゃぐ声が小さくきこえる。
- 男
- キャンプ場にまよい込んでたんだ。
- 女
- 話にならないわね。さあ、テントをたたんで、荷物をまとめましょう。
- 男
- ああ、そうしよう。すまなかったな、ナミエ。会社、休ませちゃったりして…。
- 女
- いいのよ。で、どっちに行けば山奥に分け入ってゆけるの?
- 男
- え?
- 女
- 今度こそ、まちがわないようにちゃんと道にまよってちょうだいよ。
- 拡声器、「えー、遊覧飛行は今のところ一時間待ちになっております。あー押さないで下さい。押さないで下さーい。」
- おわり