- 浩一
- あ、すいません。もう閉店なんですよ。すいません。
- 再び喫茶店のドアの鐘の音(閉まる音)。
「カランカランカラン」
- 由紀
- あ。
- マスター
- ああ、いい、いい。由紀ちゃんは別。
- 由紀
- けど……。
- マスター
- 何言ってんの。いいからいいから。…それより、はい。
- コトリとカップの置かれる音。
- 由紀
- え?
- マスター
- あれ、ミルク駄目だったっけ?
- 由紀
- いや、駄目じゃないけど、
- マスター
- そっか。なら飲んで、飲んで。サービス。
- 由紀
- すいません。
- マスター
- いや、お礼はこっちが言う方。その牛乳、今日がリミットだから。
- 由紀
- え?
- マスター
- 賞味期限。今日中だから。
- 由紀
- ああ…じゃあ、遠慮なく。
- マスター
- うん。
- 由紀
- (溜息)はぁー。
- マスター
- ……浩一君も忙しいんだね。
- 由紀
- ねぇ。
- マスター
- ねぇって。
- 由紀
- 忙しがってはいますけど、どうだか…。
- マスター
- そうなの?
- 一瞬の間
- 由紀
- いや忙しいのは確かだと思いますよ。
- マスター
- 3年目だっけ?
- 由紀
- ええ。新入社員が入って来ないからずっと一番下らしいんですけど、
- マスター
- じゃあこきつかわれてるわけだな。
- 由紀
- みたいですよ。
- マスター
- そっか……。
- 由紀のミルクを飲む音。
- 由紀
- 今、こんなに忙しいってことはどうなることだか。
- マスター
- 来年だっけ、結婚?
- 由紀
- 6月です。
- マスター
- うん。
- 由紀
- 何か始終待ってる毎日の気がしますよ。
- マスター
- まぁまぁ。
- 間
マスターが自分のカップにコーヒーを入れる音。
- 由紀
- でも、本当にごめんなさい。
- マスター
- (入れつつ)え?
- 由紀
- 時間。もう閉店なのに。
- マスター
- ああ、気にしないでよ。
- 由紀
- あと10分して来なかったら出ますから。
- マスター
- 何で、気遣わないでよ。
- 由紀
- いえ、そうします。
- マスター
- そしたら由紀ちゃん場所変えて待つんでしょ?
- 由紀
- え?…ええ、まぁ。
- マスター
- だったら無駄なお金使わないでよ。
- 由紀
- けど……。
- マスター
- うちのことなら気にしないで。僕も今日子さん待ってる間、話し相手がほしいんだから。
- 由紀
- あ、そう言えば今日子さん、おでかけですか?
- マスター
- また行ってるんだよ。
- 由紀
- また?
- マスター
- ほら、カラオケ。
- 由紀
- …ああ。お友達と。
- マスター
- タバコ屋のご隠居さんだよ。ほら、そこの角の…クリーニング屋の隣の。
- 由紀
- ああ。
- マスター
- 最近あそこのおじいちゃんと仲良しなんだ。
- 由紀
- へーえ。いいですねぇ。
- マスター
- いいのかなぁ。まぁボケ防止にはなるかもね。
- 由紀
- ひっどい。
- マスター
- いやでもこれは本当にいい意味で言ってるんだ。今日子さんも出歩くようになってから、明るくなったしね。
- 由紀
- 前から明るかったじゃないですか。
- マスター
- いや、前より随分オープンになったんだよ。
- 由紀
- そうなんですか?
- マスター
- うん。やっぱり入院していろいろ考えたらしいんだ。
- 由紀
- いろいろ?
- マスター
- うん。……今日子さん曰くね、僕等の1日と今日子さんの1日は違うらしいんだよ。
- 由紀
- …どういうことですか。
- マスター
- うんとね……そうだな…例えばね、由紀ちゃんはいくつだっけ?
- 由紀
- 25です。
- マスター
- 25歳。……え、そんなに若いのか。
- 由紀
- 大して若くないですよ。
- マスター
- いやいや……だって今日子さんは76歳だよ。
- 由紀
- あーっと、今日子さんに比べたら若いですね。
- マスター
- うん。まぁ、僕と比べても随分若いけどね、
- 由紀
- そんな。マスターと私だったら一回りくらいでしょ?
- マスター
- まぁ、そうだけど……いやいや何の話だっけ?
- 由紀
- えーっと……。
- マスター
- ああ、そうそう。今日子さんの1日と僕等の1日の話だな。
- 由紀
- ええ。
- マスター
- うん。今日子さんに言わせるとね、僕等の1日は分母が大きいって言うんだ。
- 由紀
- 分母?
- マスター
- うん。つまりね。まだまだ来年や再来年のことを考えて1日をすごせるって言うんだ。
- 由紀
- うん。
- マスター
- でもね。今日子さんにとってはね。分母は有限だってわけだ。
- 由紀
- どういうことですか?
- マスター
- つまり1日1日が無限に続いていくわけじゃないってことがわかりすぎるほど分かっちゃうらしいんだ。
- 由紀
- …うん。
- マスター
- だから毎日毎日がとても大切だって言うんだよ。
- 由紀
- そんなぁ、それは私も同じですよ。
- マスター
- いや、もちろん僕だってそうだよ。けどね、
- 由紀
- ええ。
- マスター
- 今日子さんは2年先、3年先を考えて毎日を過ごせないって言うんだ。
- 由紀
- そんな…今日子さん、もう身体は大丈夫なんでしょ?
- マスター
- 胃の方はね。もう大丈夫なんだけどね。
- 由紀
- だったら、
- マスター
- 由紀ちゃん、別に今日子さんは悲観的に何だかんだ言ってるわけじゃないんだ。ただね、
- 由紀
- ええ。
- マスター
- 毎日、毎日。時間を大事にしたいらしいんだよ。
- 由紀
- ああ。
- マスター
- 時間が無限じゃないってことを身体できっと感じるんだね。毎日毎日、確実に老いてゆくのが分かるからこそ、やれることを一杯やりたいんだと思うんだよ。
- 由紀
- うん。
- マスター
- だからね、僕も最近はあんまり口うるさく言わないようにはしてるんだけど、
- 由紀
- そっか……。
- マスター
- しかしカラオケはなぁ。
- 由紀
- え?
- マスター
- 何もカラオケに行かなくてもいいと思わない?
- 由紀
- え、マスター、カラオケ駄目なんですか?
- マスター
- 駄目じゃないけどさぁ。もっと例えば詩吟とか、囲碁とか何かそういうのあるだろ?
- 由紀
- でも今日子さんはそういうのよりカラオケがいいんでしょ?
- マスター
- そうなんだよ。私はパァーっとしたのが性に合ってるとのたまうんだ。
- 由紀
- 今日子さんらしいじゃないですか。
- マスター
- 我が母ながらどうかなぁと思うよ。
- 由紀
- どうして、いいじゃないですか。
- マスター
- そうかぁ?
- 由紀
- ねぇ、18番は何なんですか。
- マスター
- え?
- 由紀
- 今日子さんの好きな歌。やっぱり演歌とかですか?
- マスター
- 行きはじめたころはね。去年の暮れからカラオケにはまっちゃったんだけど、
- 由紀
- え、じゃあ今は何歌ってんですか?
- マスター
- そこだよ。
- 由紀
- え?
- マスター
- 最近は僕も知らないようなCDばっかり買って来るんだ。
- 由紀
- というと…、
- マスター
- ラジオ体操しながら口ずさんでるのはほら、男の子の5人グループの、
- 由紀
- 5人グループ?
- マスター
- 何だっけ…ほら、歌手で、ドラマもやってて、
- 由紀
- 歌手で、ドラマやってて…、
- マスター
- ストップじゃなくて、スコップじゃなくて、スキップじゃなくて、
- 由紀
- やだ、もしかして、
- マスター
- そのもしかしてだよ、そのうち武道館にでも行くとか言い出すんじゃないかと思うとさぁ、
- 由紀
- ……。
- 一瞬の間
- 由紀
- (突然笑い出して)何かいいですね。
- マスター
- どこが。
- 由紀
- だって今日子さん、本当に楽しんでそうじゃないですか。
- マスター
- いや、由紀ちゃんは他人事(ひとごと)だから笑ってられるんだよ。想像してみなよ。70過ぎたおばあちゃんと80前のおじいちゃんが二人してカラオケでそんなの歌って踊ってたらさぁ。
- 一瞬の間。
- 由紀
- (笑って)やっぱりいいじゃないですか。
- マスター
- よく言うよ、他人事だと思って。
- と、扉が開いた。
「カランカランカラン」
- 由紀
- あ。
- マスター
- お、待ち人あらわるだ。まぁ、あんまり怒らずにね。
- 由紀
- 今日は大丈夫みたい。何か…はい。
- マスター
- そう?
- 由紀
- ええ。今日子さんを見習います。
- マスター
- え?
- 由紀
- 今日のところは時間を大事にして、
- マスター
- ああ。
- 由紀
- おいくらですか?
- マスター
- ……それじゃあコーヒー2杯分を1年の分母で割って
- 由紀
- え?
- マスター
- いや、だってまだまだ由紀ちゃんが待つ時間はたっぷりだろうからさぁ、
- 由紀
- やだ、何ですかそれ。
- マスター
- 何か計算、ややこしそうだな。いいや。今度くる時までに計算しとくよ。
- 由紀
- そんないいですよ。
- マスター
- いや、まぁいいじゃない。そういうことがあっても。ここは今日子さんに免じて、
- 由紀
- 今日子さんに免じて?
- マスター
- とりあえず行ってらっしゃい。
- 由紀
- ……じゃあお言葉に甘えて。
- マスター
- そうそう。若者は甘えてくれなきゃ、可愛いくないからね。
- 由紀
- 何ですか、それ。
- マスター
- 行ってらっしゃい。
- 由紀
- はい。
- 由紀、出ていった。
「カランカランカラン」
- 終わり