さみしい夜に、カバンを拾った。カバンの中に街があった。靴だけが、空っぽの街を歩いていた。
靴音が聞こえる…行く先は、角を曲がって3件目の古いアパート。その2つ目のドアの前で足音が止まる。ノックする。ドアが開く。
テーブルに二人分の食事が用意されている。
あまやかなシチューのにおい。旧式のストーブの上では、お湯が沸いている。湯気で曇った窓のガラス…
ぼんやりとしていて、カバンを無くしてしまった。財布はポケットに入れてあったし、重要なものが入っていたわけではない。何年もの間、男と一緒に過ごした、すりきれた古いカバンだ。
街から街へ、男はそのカバンに、カーテンの布見本を詰めて、歩き回った。10センチ四方の布の切れ端を綴った、分厚いノートのような見本帳は、男の商売の道具だった。
どこに忘れたのだろう。公園のベンチ、喫茶店のテーブル、バスの中、駅のトイレ…
ラ・ラ・ラ・ラ・リ・ル・レ・ロ…ラの音は、冬の音。星の光る夜の読書。リルケ、ロートレアモン、ラフォルグ、ランボー…あたたかいラム酒に漬かったレーズンの夜。
男は、だが、警察に届けようとは、しなかった。いらなくなった見本帳の他には何も入っていない。男は、布の一枚一枚を思い浮かべてみた。いろんな模様の生地があった。水玉、花模様、ストライプ、チェック…
最近、売れたものは、何だったのだろう。男は首を振る。覚えていない。もう、ずいぶん前のことだ。
「ねえ、何か話して。」
女は、冬眠の前のリスのように、ベッドにもぐり込む。
むかしむかし…
どのくらい昔?
あまり昔過ぎて、わからないくらい昔さ。
いいわ。
忘れられたような街があったんだ。とても小さくて、4つに折り畳んでカバンの中に入って仕舞えるほど小さい街さ。
どんな女の子なの?
とても小さくて、4つに折り畳んでポケットに入ってしまうくらいの女の子だよ。
想像してみるわ。
女の子は待ってたんだ。誰かが、ドアをノックしてやってくるのを。もちろんそれは、家賃を取り立てにくる口やかましい管理人や、カーテンのセールスマンじゃない。
カーテンのセールスマンって、どんな人なの?
関係ないよ。そんな奴には、ドアは開けないからね。
でも、気になるわ。
生地の見本を持って、カーテンを売って歩いてるんだよ。
おもしろそう。
つまらない男だよ。
わからないわよ。話してみなくちゃ。
君は、カーテンがほしいのかい?
もちろんほしいわ。ほら、あの窓にね…
女は、何も掛かっていない窓をみつめた。星が光っていた。
ラ・ラ・ラ・ラ・リ・ル・レ・ロ。ラの音はロマンスの音。ラムネ、ラッカセイ、ランプシェード、ライムを浮かべたリキュールの夜。
男の忘れたカバンは、夜の中に、ひっそりと口を開いていた。カバンの中に、見知らぬ街があった。迷路のような道があった。幾つもの窓があった。その中で何人もの女の子が、眠れない夜を過ごしていた。
窓の明かりにカーテンが映る。水玉も花模様もストライプもチェックもあった。男は目をとじた。
ねえ、目をつぶると見えて、目を開けると消えてしまうもの、なーんだ?
end