母が離れで生け花を教えていたこともあってか、家(うち)には和菓子の貰い物がよくあった。僕は小さいころ甘いものには目がなく、小学校から帰宅すると目敏(めざと)く見つけては紙の紐を解(ほど)いたものだ。
「白いのがええわ」
どれにするかと見せに行くと大概(たいがい)母はそう答えた。
僕としては蓬(よもぎ)やら小豆(あずき)やら色のついたのが食べたいわけで、願ったり叶ったりなのだが、なんでいつも白いのなんか?と聞いてみた。
「雪みたいやからかな。奇麗で、はかのうて、あやうい感じ。あははは、ようわかれへんか。」
ようわかれへん。と僕は答えた。パチパチと枝に鋏み(はさみ)を入れながら正座する母に、そしたら花も白いのんが好きなんか?と聞いてみた。
「そうや。一番好きなんは椿、中でも白うて大きい花つける白拍子が一番好きや。」
そういえば、家(うち)の庭には椿が多い。けど白いのなんかあったっけ。
「家(うち)にはないんよ。家(うち)にあると生徒さんに言われたとき切らんわけにはいかんやろ。母さんあれには鋏を入れとうないの。あ、駅前にあるわ。駅前の植え込みに一本だけ知らんか?」
うん、知らん。そうか、そしたら母さんは季節でゆうたら冬が好きなんやな。
「いいや、母さんは夏が好き。」
え、なんで?
「夏には匂いがあるからや。あんたがプールから帰ってきたら、プールの匂いがする。山で遊んできたら、土の匂いがする。
父さんが仕事から帰ってきたら、汗の匂いがする。海の匂いや緑の匂いや蚊取り線香や、お隣の夕飯の匂いやら、あははは、夏の風が色んな匂いを運んでくるんよ。
今もほら、お饅頭のええ匂いがするやろ。」
ほんまや。そしたらな、夏に庭いっぱい雪がふったら、雪の匂いがするんかな。
「ええなぁ、そしたら母さん、嬉しいて庭に出て走り回るわ。」
そんな会話をしてから、ひと月も経っていなかった。
あまりに急な出来事に僕はうまく現実がのみこめないまま、父と二人の生活が始まった。庭の花の手入れは、父がするようになった。
当時、駅前のロータリーの真ん中が植え込みになっていて、その中に椿の木が一本あった。これが母の言っていた椿だ、と僕は冬の間中気をつけていたが、結局、花は咲かなかった。虫が喰っていたのかもしれない。椿じゃなかったのかもしれない。僕は花のことなんかよくわからないんだ。
それから、僕は学年を一つあがった。父は、日々の忙しさに気も紛れているように見えた。そして、夏が来た。
その日、駅前を通りかかった時、それが目に入った。僕はロータリーを横切り柵を越えて近づいた。植え込みの椿に、花が一つだけ咲いている。白い、大きな花だ。
よく見ようと手を伸ばしたその時、花は枝から離れた。僕は思わずそれを受け止めた。
学校の裏手の丘は一面の芝生が伸び放題になっていた。僕はそこに転がって、手の中の椿を置いた。青い芝生の上で、それは本当に白かった。僕はしばらくそれを眺めた。
母さんの椿、夏に咲いたで。白い花の匂いがするわ。
僕は何時間もそのままその丘に転がっていた。