その古本屋へ貴方がやって来たのは、私が働きはじめて三日目のことでした。空色の、カーデガンを着ていましたよ。「いらっしゃい」と言う私の声に、ちらと私を見、表情を変えるでもなく、本を探しはじめました。奥にいた主人が、「常連だ」と教えてくれました。
学生時代のアルバイトに古本屋を選んだのは、それが性にあっていたからです。性にあった仕事を楽々とこなし、あとは、気に入った本をのんびりと読んでいればいい。まったく私にぴったりの仕事でした。主人は、眼鏡をかけ白髪まじりの、何というか如何にも古本屋といった風情の人でした。…貴方も覚えていますか。
貴方は三日か四日に一度はやって来ました。すっきりした洋服をきちんと着、真直ぐな髪を耳にかけ、本の並ぶ棚をゆっくり一通り見て歩くのです。どんな本を買う時も、表情は同じでしたね。それが気に入れば口の端でわずかに笑顔をつくり棚から引き出す。引き出してパラパラとめくり、私のところへ持ってくる。…引き出された本は再び棚へ返されることはまずありませんでした。貴方は…、いつもその題名や装丁で本を選んでいたのですか。私には到底、貴方が一体どういう人なのか、わかることは出来ませんでした。
実は一度だけ、別の場所で貴方を見かけたことがあったのですよ。冬のとても寒い日で、私は駅の待合室で、暖をとっていたのです。私の前には先程から落ち着かず、立ったり座ったりを繰り返している女の人がいましたが、私が待っていたのとは逆の列車が間もなく到着するという時に、その女性は通りに誰かを見つけ、大きな声をあげました。(女性の声)「あ、来た来た!早く早く!」
そこに息をきらせて走りこんで来たのが、貴方でした。女友達に荷物を手渡し、「ああ、間にあってよかった」と、白い息を吐き、頬を赤くして、笑っているのが、貴方でした。私はただただ、口を開(あ)いて、貴方の一挙一動を見ていましたっけ。
翌日、貴方はいつものようにやってきました…違っていたのは、私の方でした。一瞬にして背を伸ばし、貴方をみました。ふと、視線を感じ、奥の部屋に目をやりましたら、主人がじっとこちらを見て、それから、おもしろそうに「ふん」と言いましたよ。
常連、という言葉には何の約束もないのだということを私は考えていませんでした。実に間抜けでした。貴方はある日からパタリと来なくなりました。十日も経ってソワソワとしはじめた私に主人がポツリと「引っ越したってよ」といいました。それが貴方のことだとはすぐにわかりましたが、私にはどうすることも出来ません、すっかり諦めてしまうよりほかなかったのです。
もう数年前のことです。ですから先日偶然貴方を見かけた時に、自分自身があれほど動揺したことに驚きました。そして貴方に声をかける勇気が私の中にあった事も驚きでした。貴方にああして声をかけるに至ったあれこれをお伝えしたく、この手紙を書いている次第です。
その手紙は、随分と難しそうな本に挟まれていた。贅沢を嫌った父の荷物は簡単に片付いてしまい、沢山の本だけが父という人を語っているようで手にとってはパラパラと風を通している時に見つけたのだ。結局その女性には届けられなかった手紙を、父は時々思い出すように読み返していたんだろうか?母と知り合うずっと前のこんな父のことを母は知っていたんだろうか?もの静かで本ばかり読んでいた父を私は嫌いではなかったけれど、きちんと並べられた古い本のような父の印象に、ほんのりと色がさしたような気がしたのでした。