透明な夜の空気をふるわせて、鈴の音が聞こえる。かすかに、リン、と1つ。それから、リン、リン、リンと、3つ。
寝つかれないまま、ベッドの中で本を読んでいた女は、耳をすます。「何だろう?」
スタンドの明かりを消して、ぴったりと窓に顔を寄せる。
夜の闇のなかに、細い綱が渡っていた。
女の住むマンションの5階の部屋へ、ぴんと張られたその綱を、バランスを取りながら、一人の青年が渡ってくる。
頭にはカラフルなニット帽。真っ赤なサロペットパンツに黄色いセーター。暗い夜の中で、鮮やかな色彩が踊っている。
サーカスだよ。サーカス団がやってきたよ。
さあ、どの子も目を覚ますんだ。急がないと見逃しちゃうよ。空中ブランコに綱渡り、アクロバットにライオンの火の輪くぐりだ。自転車ショーに、ドッグレース。可愛い子猫のラインダンスもあるよ。
声と共に、町中の建物から建物へ、窓から窓へ、てぐすのような綱が張り巡らされていく。
先着100名様に風船の大サービスだ。早くこないと無くなっちゃうぞ。
青年の手には、色とりどりの風船がにぎられている。あちらこちらの窓が開き、子供たちが一斉に顔を出す。
はい、おじょうちゃんは5列目の右から2番目だ。
おじょうちゃんと呼ばれたのは、たばこ屋のあや子さんだ。あや子さんは、独身で30を過ぎている。
坊やは2列目の一番はしだ。いい席だぞ。
坊やと言われて、嬉しそうに笑っているのは、深草寺の住職さんだ。窓の子供たちは、よくみると、みんな大人だ。
八百屋のおにいさんも、クリーニング店のおばさんも、喫茶店のマスターもいる。
青年はみんなにやさしく声をかけながら、一つ一つ、風船を配っていく。
「次は私の番」
男は、小さなアパートの一室で、夢を見ていた。昔、自分もサーカスの舞台に立っていたことがあった。空中に張られた綱の上を、きらびやかな衣装を着て、軽やかな足取りで渡っていった。綱から落ちて足の骨を折るという事故が、男の一生を変えるあの時まで。
もう、空中で綱を渡ることは出来ない。
突然、窓の景色が乱れる。綱渡りの青年は、あっという間にバランスを崩し、女の目の前で、夜の中に消える。青年の手を離れた風船が、空に吸い込まれていく。
オレンジ、ストロベリー、レモンイエロー、ソーダーブルー、ペパーミントグリーン…あれは、子供の頃好きだった、ジェリービーンズの色だ。女は、ほんのりと甘かったお菓子のことを思い出す。
「もう少しで、私のものだったのに」
女の意識の中には、もう、綱渡りの青年はいない。女は、貰えなかった風船のことだけを考えていた。
今、男は地上で、あぶなっかしく、綱を渡っている。朝はやくから、夜遅くまで、仕事はきつい。世の中は、綱渡りのようなものだ。
渡る間に、子供のころからの夢が、一つ一つこぼれていく。それでもめげないで、綱を渡っていく。
ふと目を覚まし、ごろんと寝返りを打ったふとんの中で、小さなかけらが、からだにあたる。拾い上げると、ジェリービーンズだ。
どうして、こんなものが? 不思議に思う間もなく、男はまた、眠りに落ちていく。
今夜は星がきれいだ。
「明日も晴れるかな」
女は、ぷるっと、震えながら窓を閉める。
どの窓も、静かに眠っている。
END