- スズメの鳴き声。
朝の街を男が歩いてくる足音。
ビニール袋がガサゴソ音をたてる。
- 男
- ふう、重かった。よっこらせっと。ビニール袋を置き、手をパンパンとはらう。どこからともなく女がやってくる。
- 女
- あれ?
- 男
- あ
- 女
- ちょっと、なにやってるの?
- 男
- しまった。
- 女
- まさか、あなた…。
- 男
- な、なんでもないんです。
- 女
- なんでもないわけないでしょ。どうするの?その黒くて大きなビニール袋。
- 男
- どうもしないんです。ひっそりとここに…。
- 女
- 知っててやってるのね。今日は金曜日だってこと知ってて置いてくつもりなのね。
- 男
- だって、次は月曜日なんですよ。
- 女
- 困ります。持って帰って下さい。
- 男
- 困るって、あなたが困るんですか?
- 女
- 私だけじゃなくて、みんなが困るでしょ?さ、持って帰って下さい。
- 男
- いやです。
- 女
- いやって、あなた…。
- 男
- 絶対に持って帰りません。それを持って帰るくらいなら死んだ方がましです。
- 女
- …何が入ってるの?これ。
- 男
- 実は、急な出張で3ヶ月ほど留守にしてたんですよ。その間に、電気を止められちゃったみたいで、その、冷蔵庫が…。
- 女
- え?
- 男
- 冬とはいえ、閉め切った部屋の中で直射日光をあびたグレーの冷蔵庫は、もはや冷蔵庫とは呼べませんよね。
- 女
- グレーの冷蔵庫に直射日光が当たってたの?
- 男
- はい。温度は30°から40°ってとこでしょうか、冷凍庫に入ってたサバやアジやサンマたちが…。
- 女
- サバやアジやサンマの生魚が30°から40°で何カ月も?
- 男
- はい。想像できますか?
- 女
- そ、想像したくないわ。
- 男
- なんかこう、もわーっと
- 女
- やめて!
- 男
- それだけじゃないんです。納豆が…
- 女
- 納豆?どうして捨ててから出張に行かなかったのよ。
- 男
- 急に出張が決まっちゃって、忘れてたんです。納豆からヒゲみたいなものがウワーっと。
- 女
- やめてったら!
- 男
- そのヒゲみたいなものが、昔はヨーグルトだったゲル状の液体をくぐり、昔はトリのモモ肉だった小高い丘をこえて、冷蔵庫の扉の外までウワーっと。
- 女
- そ、そんなに?
- 男
- すごいんですよ。ちょっと見てみますか?袋の口を開けようとする。
- 女
- いいです。いいですよ、見せなくても。
- 男
- あ、そうですか?
- 女
- ああ、トリハダが立ってきちゃった。
- 男
- あれ?そこにある青いビニール袋は何ですか?
- 女
- これ?これは、ビニール袋じゃないですか。
- 男
- まさか…。
- 女
- なにが「まさか」よ。私はただビニール袋を持ってここを通りがかっただけじゃないの。
- 男
- ふうん…。
- 女
- あなたみたいに置いたりしてないでしょ。私はただ持ってるだけなのよ。
- 男
- じゃ、私いそいでますから。
- 女
- …逃げるのね。
- 男
- いいじゃないですか。あなたもここに置いといたら。
- 女
- 男ってみんなそうなのよ。都合が悪くなると逃げ出せばいいと思ってるんだわ。
- 男
- は?
- 女
- 残された女がどんなに苦しむかなんて少しも考えないのよ。身がってな男の身がってな行動の結果がこれよ。
- 男
- な、なんですか、それ。けっこう重そうだけど。
- 女
- 重いわよ、あたしにとっては地球より重かった。さっきまでは。
- 男
- ちょっと、ちょっと冗談はよして下さいよ。
- 女
- あら、何をあわててるの?
- 男
- やっちゃったんですか。
- 女
- だってどうしようもなかったのよ。あの人来てくれなかったし。
- 男
- だからってあなた、そんな袋に入れて捨てるなんて…。
- 女
- 誰も捨てるなんて言ってないでしょ。私は持ってるだけなの。
- 男
- ………じゃ、私、いそいでますから。
- 女
- やっぱり逃げるんだ。
- 男
- そりゃ逃げますよ。
- 女
- 見ますか?
- 男
- ……え?
- 女
- 見てやって下さい。誰かにひと目見てもらうだけで私、少し楽になるような気がして来ました。
- 男
- や、やめてくれ。
- 女
- だいじょうぶ。あなたのとちがって、私のはまだ新鮮よ。
- 男
- ケ、警察に電話しましょう。電話して、自首しましょう。
- 女
- …うふふふふ、あはははは。何を勘違いしてるの、あなた。私は、ゆうべ来るはずだった男のために作った料理を見て下さいって言ってるのよ。
- 男
- 料理?
- 女
- そう。身がってな男の身がってな行動の結果、どうしようもなくなって捨てられる運命になった、私の手料理たち。
- 男
- 本当に?
- 女
- 見ますか?
- 男
- …やめときます。
- 女
- いくじなし。さ。あなたも、この袋持って帰って下さいね。(女、男のビニール袋を持ち上げる)ずいぶん重いわね。冷蔵庫の中にこんなに入ってたの。
- 男
- いや、冷蔵庫だけじゃなかったんです。
- 女
- なんなの?
- 男
- 言っても信じてもらえそうにないから、いいです。
- 女
- そう。
- 男
- 実はね、かわいがってたペットが…。
- 女
- な、なんですって?出張中に死んじゃったの?
- 男
- はい。エサもちゃんと置いといたんだけど、やっぱり気温のせいですかね。帰ってみると台所の床にツボハチがバッタリと…。
- 女
- ツボハチ?
- 男
- タコなんです。でも普通のタコじゃなかったんですよ。
「ツボハチ」って呼ぶと、7本目の足をこうやって上げて、私のヒザの上に乗って来ましてね。それはそれはかわいいやつだったんです。
- 女
- タコがヒザの上に…。
- 男
- これです。袋の上からさわってみて下さい。これがツボハチの7本目の足なんです。(袋を女の方にさし出す)
- 女
- い、いいです。私、これで失礼します。
- 男
- やっぱり信じてもらえないんだ。
- 女
- いえ、信じてますよ。じゃ、失礼します。
- 男
- 見てやってくれませんか、私のかわいがってたツボハチを。
- 女
- …やめときます。
- 男
- いくじなし。忘れてますよ、手料理の入ったビニール袋。
ほらほら。(男、女のビニール袋を持ち上げる)ん?けっこう大きなものが入ってますね。
- 女
- ええ、丸焼きだったの。
- 男
- 七面鳥かなんか?
- 女
- どうでもいいじゃないですか、そんなこと。もう終ったことだし。
- 男
- 七面鳥は、こんなに大きくないよなぁ。
- 女
- ブ、ブタよ。ブタの丸焼き。
- 男
- ブタの丸焼きを二人で?信じられない。
- 女
- じゃあタコはどうなのよ。信じられないなら開けてみれば。
- 男
- わかった。二人で同時に開けてみようじゃないか。
- 女
- い、いいわよ。後悔しないわね?
- 男
- そっちこそ。
- 女
- 行くわよ!
- 男
- 来い!
- 袋をバサバサやる音。「エリゼのために」(ゴミ
収集車が鳴らしてるような)が聞こえる。
- 男
- あれ?今日、金曜日なのに。
- 女
- 仕方ないわね。また来週ってことにしましょうか。
- 男
- 金曜日にまたここで?
- 女
- うん。楽しみだわ。
- 男
- あ。遅刻しちゃうよ。じゃ。
- 女
- 行ってらっしゃい。
- 「エリゼのために」大きくなって終り。