- 登場人物
- 男(平野)
女(村井)
- ―ある高層ビルにあるオフィス。夜。
男と女、二人の会社員が残業している。他には誰もいない。パソコンのキーをたたく音だけが広い室内に響いている。
- 女
- ね、平野君。
- 男
- はい。
- 女
- こないだ渡した商品企画書、どうしたっけ。
- 男
- 村井さんに返しましたよ。部長にまた、見てもらうからって。ハンコ、まだだったでしょう。
- 女
- そう。…そうよね。おかしいなあ…どこやっちゃったかな…。(と、自分のデスクの上を探している)
―デスクの上から、書類の山が崩れ、バラバラと床に落ちる。
- 女
- ああ、ああ。もう…。(と、拾う)
- 男
- (それを見て)…ひといき、いれましょうか?
- 女
- え?うん…。(と、尚も探している)…平野君、まだ帰らないの?
- 男
- ええ、ちょっとこれ、やってからでないと…。
- 女
- ガンバルなぁ。
- 男
- 家にまで仕事、持ちかえるの、あんまり好きじゃないから…。
- 女
- へぇ。奥さんにしかられちゃう?
- 男
- ええ、まあ…。(と、苦笑)…コーヒーでいいですか?
(と、立つ)
- 女
- うん。…あ、これこれ、あったあった。
- 男
- ―男は給湯室へ。そこから、
砂糖とミルク、入れます?
- 女
- ああ、私、いらない。
―女は、窓へ行き、開ける。
はるか下界からの雑踏の音が、わあーんとこだまして来る。
「ウーン」と女、伸びをする。男、もどって来て、女のデスクに、
- 男
- はい。(と、コーヒーを置く)
- 女
- ありがとう。…みんな、もう帰っちゃったの?
- 男
- ええ、ずいぶん前に。
- 女
- あ、そう、知らなかった。(と、コーヒーを飲む)
- 男
- 村井さん、最近ちょっと仕事やりすぎなんじゃないですか?
- 女
- え?…そうかな…。
- 男
- 毎晩、残業してるそうじゃないですか。
- 女
- そんなことないわよ。
- 男
- うちの課の若い連中が言ってましたよ。
- 女
- ええ?…あ、そう。どうせ、仕事ぐらいしかやることないんだろうって、悪口言ってたんでしょう。
- 男
- いや、そこまでは言ってなかったと思うけど…。
- 女
- ま、確かにそうなんだけどね。他にすることないから…。だって、誰も、さそってくれないんだもん。
- 男
- 誰か、いい人いるんじゃないんですか?
- 女
- そんなのいるわけないじゃない。
- 男
- ホントですか?
- 女
- じゃあ、平野君、今度さそってよ。喜んで、どこでもついて行っちゃうから。
- 男
- ええ?
- 女
- ウソウソ、そんなことできないわよね。平野君、愛妻家だっていうウワサだから。
- 男
- そんなことないですよ。誰が、そんなこといってるんですか。
- 女
- まあ、いろいろと、うちの課の若い連中が…。
- 男
- まいったな。
―女、ほほえましく笑っている。
雑踏の音。
- 女
- あら、ちょっと、見てよ。…今夜は満月じゃない?
- 男
- あ、本当だ…。都会の月も、けっこう明るいんですねえ。
- 女
- だって、43階だもん、ちょっとは月に近いわけだから。
- 男
- ああ、そっか…。
- 女
- いやいや、…まんまるだねぇホントに…。
- 男
- ええ…。 ―間。…雑踏の音。都市の音。
- 男
- …いないんですよ、今夜は…うちのカミさん。
- 女
- え?どうしたの?
- 男
- 実家(くに)にかえってるんですよ。九州の天草なんですけどね。
- 女
- へえ。
- 男
- 子供が生まれるもんだから。
- 女
- あ、そう。そりゃ、おめでとう。よかったじゃない。
- 男
- ええ。今日が予定日なんです。
- 女
- ええ?じゃあ、帰った方がいいんじゃないの?
- 男
- はあ。
- 女
- 何やってんのよ。家に連絡とかあるんでしょう。
- 男
- ええ、たぶん。
- 女
- 帰んなさいよ。
- 男
- …そうなんですけどね。何となくそんな気になれなくて…
いや、どっかで、気にはなってるんだけど。
- 女
- そうでしょう。
- 男
- だからといって、アパートの電話の前で、ひとりじっとして待ってるのも、ナンだなと思って、何だかバカみたいでしょう。
- 女
- でも、きっと奥さん、悲しむわよ。…すぐにでもダンナさんの声、聞きたいんじゃないの?こういうときって。
…私にはわかんないけど…。
- 男
- まあ…こうしてる場合でもないんだけど。
- 女
- そうよ、仕事なんていいから帰んなさいよ。
- 男
- はあ…。
- 女
- …ったく、呑気なんだから…。
- 男
- …田んぼがあって、そのあぜ道を登りつめたら、小さな白い教会があって、そっからは遠く港を見ることができるんです。波のおだやかな漁港なんだけど…。
- 女
- …うん?
- 男
- 妻の実家ですよ。…初めてそこ行ったときは、ホントいいところだと思いましたよ。
- 女
- そう…。
―二人、外を見ている。
- 女
- 奥さんにもみえてるかなあ…満月…。ああ…そんなわけないか…。そんな余裕、ないわよね。
―二人、外を見ている。
- 男
- …。じゃ、オレ、帰ります。
- 女
- え?あ、そう。…うん、それがいいよ。
- 男
- (デスクの書類などをカバンに入れつつ)あと、おねがいしますね。
- 女
- はいはい。
- 男
- それじゃ、失礼します。
- 女
- うん。…あ、平野君。(と、呼び止める)
- 男
- はい。
- 女
- 元気な、赤ちゃん、生まれるといいね。
- 男
- ええ。(ニッコリして)ありがとうございます。(と、ドアから去る)
―雑踏の音、かすかに。
遠くをジェット旅客機がゆく。
ゴーッと月の夜空をむなしく通り過ぎてゆく。
―女、軽くタメイキをついて、
- 女
- …週末はちょっと、月にでも行ってくるかな。
―と、左手で右肩をもんで、「ウーン」と首をまわす。
- 女
- さあてと、あとひといき。
―デスクに向う、女。
―広いオフィスにパソコンのキーの音が響いている。
―外では、満月がそのビルを見おろしている。
- 終わり