- 女
- 夜、目を覚ますと、窓の外で誰かが私を呼んでいた。なつかしい声。でも、誰だか思い出せない。心臓がキュンと鳴って、急いで窓を開ける。まんまるい月が出ていた。その月の上で、イルカが夜の空に釣り糸を垂らしている。
-
- *
- 女
- 何を釣っているの?
- 男
- 魚さ。決まってるだろ。
- 女
- こんな所で?
- 男
- 穴場なんだよ、ここは。ほら、またかかった。
これで10匹目だ。
- 女
- きれい。
- 男
- きれいな魚っていうのは食うと不味いんだ。
美味しいのは、こっちの方さ。
- 女
- もっとよく見せて。
- 男
- こいよ。
-
- *
- 女
- まんまるい月のてっぺんに、私はイルカと並んで腰を掛けた。
- 男
- そうら、見てろ。
- 女
- イルカの放った釣り糸は、ゆっくりと放物線を描いて、夜の中に落ちていった。
- 男
- そら、11匹目だ。
- 女
- 魚はきらきらと輝きながら、つかまえようとする私の手をすりぬけていく。
- 男
- ちゃんと捕まえてなくちゃ逃げていっちゃうだろ。
- 女
- いつか、遠い日、おなじようなことがあった。
すくってもすくっても、破れた紙の間からこぼれていった縁日の金魚たち。いつか遠い日…
そうか、思い出した。このイルカは、遠い日の、私の夏休みの中から抜け出してきたイルカなのだ。
まっすぐな眼差しとか、やさしいコトバとか、そういうものだけで世の中が満たされていると信じていたあの頃… 自分だけは、永遠に少女のままでいられると思っていたあの頃…
- 男
- なんだ、みんな逃がしちゃったの?
- 女
- 気がつけば、私の手の中には、一匹の魚も残されてはいなかった。
ごめんなさい…
- 男
- いいさ、また、釣ればいい。
- 女
- 怒ってない?
- 男
- ああ。おいらだって、よくやっていることだからね。釣った魚は3回に1回は、食べないで逃がしてやるんだ。それで、あの時のあの魚はどんな味だったのかなって、後で想像するんだよ。想像するとさ、ドキドキするんだ。
ドキドキするって、ほら、どんな時だって、ステキなことだからさ。どうだろ。
- 女
- ええ。そうね。
- 男
- でも、もう場所をかえなくちゃ。ここは、そろそろ夜が明けてくるからね。
- 女
- どこへ行くの?
- 男
- いいとこ。
- 女
- 私も連れていってくれる?
- 男
- いいよ。しっかり捕まってな。
-
- *
- 女
- 私は、イルカのすべすべした背中に捕まって、目を閉じる。
きっと、あそこね。
麦わら帽子をかぶって、ノースリーブのブラウスから細い腕を出して、バーミューダーパンツをはいたなつかしいあの夏…
あの夏から、私のイルカはいくつの夜を渡ってきたのだろうか。
トキメキとかヒメゴトとかコイとかアイとか、そんな名前を持った魚たちを、釣っては逃がし、逃がしては釣り…
- END