- 登場人物
- 松島さん
木本
- 木本
- ボクタチは、真っ暗な山道を、頼り無げなヘッドライトで照らしながら、トコトコとひたすらトコトコと走っていた。吸い込まれるような闇の中で、間の抜けたエンジン音だけが響いた。ボクは、隣で気持ち良さそうに眠る松島さんを起こさないように、優しい運転を心掛けた。
音楽あるいは2CVのエンジン音
- 松島
- ブリキ細工みたいな車だね。
- 木本
- 大学の先輩の松島さんが、そう言ってくれたので、ボクは松島さんをドライブに誘った。いや、正確に言うと、なんとかという名前の香りの強い紅茶を御馳走になっている時、松島さんが、一度乗せて欲しいと言ったので、ボクは『はい』と返事をしただけだったけど。音楽あるいは2CVのエンジン音
- 木本
- 松島さんは実際、雰囲気のある人だった。たわいのない会話のはしばしに、ボクが言うのも変だけど、センスがあると思う。彼氏と旅館!に泊まって、寝相が悪い自分を彼氏が布団に戻してくれたなんて話も、けして下品なストーリーに聞こえない。だってボクは感心して聞いていたのだから。いや、ちょっとドキドキして、顔をあからめていたかもしれない。なぜなら、松島さんの肌は透き通るように白かったから。
- ゴトンと異音がして、エンジンが止まる
- 木本
- やっべぇ?!
- 松島
- (ウ?ンと伸びをして、少し呑気そうに目ざめる)あれ? 着いたの?
- 木本
- いえ、ちょっと。
山の中。虫の声。遠く、川のせせらぎ。
ドアを開けて出、ボンネットを開けて調べる。
- 松島
- 故障?
- 木本
- いえ、すぐ直りますから。・・・(小声で)
おかしいな・・・ラジエターか・・・こんなこと今までなかったんだけどな・・・
- 松島
- アタシ、よく眠ってたでしょ。
- 木本
- ええ、気持ちよさそうでした。
- 松島
- おかげでオナカすいちゃった。
- 木本
- じゃあ、なにか・・・あ、こんなとこでなんにも食べられないか。
- 松島
- いいよ。ゆっくりなおして。
- 木本
- あ、はい!
山の中。
- 木本
- ゆっくりどころか、故障の原因はまるでわからなかった。不幸中の幸いというか、数少ない電灯のそばだったから、少しは車の様子をさぐることもできたのだけれど。ボクは松島さんにどう言ったものかわからなかったから、手と顔を油で汚した。
- 松島
- いいじゃない、そのうち誰かが通るよ。
それまでゆっくり待とう。
- 木本
- でも、今まで対向車もなかったから、いつになるか・・・
- 松島
- 山の中ってうるさいね。
- 木本
- ええ・・・まあ・・・
- 松島
- いっぱい命があるんだよね。むせかえるよう。
- 木本
- ええ・・・
- 松島
- 向こうに川があるんだよね。
- 木本
- ええ、きっと。
- 松島
- 行ってみようか。
- 木本
- ええ、でも。
- 松島
- 昔の車って、水入れたら直るんじゃないの。
- 木本
- まあ、そういう場合もありますけど。
- 松島
- 水、とりに行こうよ。
- 木本
- でも、危ないし。
- 松島
- 平気々々、木本君、懐中電灯持ってたじゃない。
- 木本
- あ、そうだ。忘れてた。
- 松島
- ボンネットの中、暗いのに。
- 木本
- その前に、懐中電灯でもう一度、見てみます。
- 松島
- いいよ、後で。行こう。
- 木本
- いや、でも、松島さ?ん。
- 木本
- 松島さんは、大胆というか、真っ暗な中を、川のせせらぎのする方へずんずん歩いて行った。幸いそちらにはわずかの小道があって草むらに分け入る必要がなかったけれど・・・
そして、しばらく小道を下って行くと、生涯忘れられない光景にボクたちは出会ったのだった。
音楽
- 木本
- 無数の光に包まれて、いったいどれほどの時がたったのだろう。ひとつひとつの頼り無げな光が、幾重にもかさなって、ボクたちを光の世界にいざなっていた。すべての音が消え、ボクの体の重さがなくなった。
音楽
- 木本
- はっと我に返ると、松島さんはすすりあげるようにして泣いていた。深い悲しみに肩を震わせ、惜しげなく涙を流していた。彼女の溢れ出る悲しみは、そこにとどまらず、無数の蛍の光が音もなく吸い込んでいた。ボクはなにも知らなかった。知りたいとも思わなかった。だから、なにも考えず、ただ感じた。無数の光よりもまして美しい悲しみを、時がたつのも忘れて。