- 女
- リュウ?
- 男
- そう、…龍、…その町の…その…坂道を登って行くと、途中から長い長い桜並木になっていて、…
- 女
- 桜?
- 男
- そう、…ちょうど今頃は、満開だ。並木を抜けると、突き当たりがペンキ屋、左に行くとあまり流行って無いスーパーがあって、その向かいに、古ぼけたマンションが建ってる。
- 女
- そこに?
- 男
- そう、…203号室。2階に上がって3つ目の部屋、…6帖ほどの板間と申し訳程度のキッチン、それにユニットバス…どうしてそんな部屋が気に入ったのか解らない。龍は、ある年のちょうどこんな春、その部屋に住み付いた。
- 女
- リュウ…。
- 男
- そう、…その部屋の住人は、…龍が初めて現れた時には、そりゃあ驚いた。驚いたが、…驚いたのと々瞬間、すぐにその、龍の事がとても気に入って…
- 女
- …気に入って?
- 男
- そのまま一緒に暮らしはじめたんだ。…龍は部屋の中を自由に泳ぎまわる。住人の周り、テレビの上、…押し入れの中も、けっこう居心地がいいらしい。夜、住人が眠ると、龍も体の中に頭をうずめるようにして眠るんだ。…龍はね、…体が鮮やかな青で、角は銀色、目は、ルビーのような赤なんだ。
- 女
- きれいね。
- 男
- …方向を変える度に、その青い体がキラキラ光る。住人は、龍といる時間が好きだった。飽きもせずに、ただ床に座って長い時間、龍を眺めている。そうしていると、とても気分がよかった。
- 女
- そう。
- 男
- …ある日、…住人の…友人が、部屋にやってきた。桜並木を抜けて、古ぼけたマンションの2階へ、やってきた。呼び鈴が鳴って、住人は、ドアを開けた。…友人を、部屋に招き入れて、少し、緊張しながら、こう切り出した。「この部屋には、…龍がいるんだ」
- 女
- …。
- 男
- 龍は、…部屋の隅にいて、真直ぐにこっちを見てる。じっとこっちを見てる。…「ほら、龍だ」と、住人は、言った。…友人は、不思議そうな顔をして、「どこに?」と言った。…「ほら、ここ…龍だよ」…友人は、…「悪いけど」…。
- 女
- 悪いけど?
- 男
- 龍なんて、創造上の生き物がこの部屋のどこにいる、そんな物は見えない。
- 女
- …見えない…。
- 男
- そんな事よりも、と、違う話をして、しばらくして、友人は帰って行った。…住人は、友人を送って駅まで行き、すっかり沈んだ気持ちで坂を登った。足取りも重かった。桜並木を…満開の桜が時折の風に沢山の花を散らした。…並木を抜けて…ペンキ屋の前を横切り、階段を上がって、部屋に戻った。…そしたら…
- 女
- そしたら?
- 男
- 龍がいなくなってた。龍の姿も、龍の気配も、その部屋から消えていた。
- 女
- 消えた?
- 男
- …結局、龍がその部屋に居たのは、たったの一週間だ。…消えてしまった。
- 女
- …そう。
- 男
- …住人は、その後そこに何年か住んで、それから、仕事の都合で、よそへ引っ越した。
- 女
- そう…。
- 男
- …住人は、今でもずっと、覚えているんだ。…その…龍の事を。
- 女
- …そう。
- 男
- 覚えてないと、…忘れてしまうと、…龍がいたことが、なくなってしまうから。
- 女
- …そう。
- 男
- それで、この話は、おしまい。
- 女
- そう、…ねぇ、…どうしてそんな話を私にしたの?
- 男
- え?…うん……。
- 男
- ついたよ、…ここが僕の部屋だ。