- 女
- 盗まれてしまった自転車の鍵や貰ったままで期限がきれてしまった映画の招待券、旅行するたびに増えていく写真、パンフレット、案内の書類。持っていてもしかたがないのに、捨てるにしのびないものって言うんだろうか、部屋の中が片づかないのは、そんなものばかりが溢れているせいなのだ。クローゼットの奥、本棚の後ろ、机の上、食器棚や流し台、バスルームまでも一杯になって、私は棚や引き出しを整理することばかり考えている。今夜だって、気がつけば、もう何時間も座りこんだまま、そんなガラクタたちと格闘していたのだ。
- 男
- やれやれ、ちっとも片づいてないじゃないか。
- 女
- ふと声がして振り向くと、鏡の中に、いつものあいつがいた。うるさいなぁ。なんで、夜になると出てくるのよ。
- 男
- だって、鏡の中は、退屈でしょうがないんだぜ。
- 女
- もう、何年になるだろう。この古い姫鏡台の中に、男が住んでいることに気がついてから。
- 男
- 俺はずっとここにいたぜ。お前のおばあちゃんのなぐさみ者だった時もあったし、お前のおふくろのかくし男だった時もあったんだからな。
- 女
- 古い鏡台は、私の祖母が使っていたものでそれを母が譲り受け、今は私が使っている。
- 男
- 鏡に向かって化粧をする時、女は最上の笑顔を浮かべるんだ。まるで大切な思い人に笑いかけるようにね。
- 女
- たしかに鏡の中には男がいるのだ。それは女たちの満たされない情念がつくり出した幻の男だ。
- 男
- 片付けなんてやめちゃって、俺と遊ぼうよ。
- 女
- 女はいつだって鏡の男の誘惑に負ける。
それでいて、鏡の向こうに行こうとはしないのだ。
ねえ、私のおばあちゃんの時も、あんただったの?
- 男
- 中身は俺だけど、外見は今の俺とは違うんだ。おばあちゃんの作り出した男は、もっと二枚目だったよ。歌舞伎役者のダンジューローとかいうのに似ていたな。
- 女
- じゃ、母さんの時は?
- 男
- クラーク・ゲーブル。
- 女
- なによ、あんたが一番ひどいじゃない。
- 男
- お前の好みだからさ。しょうがないだろ。
- 間
- 女
- 鏡に向かうと、流れ出す水がある。川のような、愛のような、とめどない流れ。私はその流れの中で口紅を引いている。口紅はいつ、向こう岸まで辿りつくのだ
- 男
- 座っているあしのうらが冷たい。正座するとお尻の方にじわじわと移っていく。つめたくなったお尻は、おとこの手があたためてくれる。手は胸が、胸は唇が。片づかない感情が、あたためあって、あふれて、鏡の向こうとこっちで、通いあっている。