- 女
- さっき、グレがやってきた。カーテンを引いた部屋で、私は、とっておきのお茶のセットを出して、グレをむかえた。
- 男
- ひさしぶり。
- 女
- さ、ミルク、飲んでね。ビスケットもあるわよ。
- 男
- おいしそうだね。
- 女
- やだ、そんなに鼻をくんくんさせないで。
- 男
- だって、かなちゃん、いいにおいがするよ。
- 女
- これでも女の子だからね。
- 男
- 大人の女って感じだな。
- 女
- 元気だった?
- 男
- うん。かなちゃんは?
- 女
- … 私、バスに乗ってたんだ。
- 男
- バスに?
- 女
- 夢の話。バス代がなくて困ってたら、横から「これあげる」って、切符くれる子がいて、見るとね、小学校の時、好きだった男の子だったの。その子、切符を3枚持ってて、一枚は自分ので、もう一枚は私にくれて、あと一枚残っているのね。「どうしようか」って言うから、「明日つかえば」って言ったの。そしたら「だって、明日は、もうないんだよ」って言うのよ。私、悲しくなって… ねえ、どうして明日はないの。
- 男
- きっとさ、その日が、その子の卒業式だったんだよ。そのバスは、学校に行くバスで、だから、明日からは、もう乗らなくていんだって、そういう意味だよ。
- 女
- 違うわ。乗らなくていいんじゃなくて、その子はないって言ったのよ。明日はないって。
- 男
- … かなちゃん、参ってるね。
- 女
- …
- 男
- 心がさ、今、ちょっと、参ってるでしょ。
- 女
- わかる?
- 男
- 元気になるいい方法、教えてあげようか。かなちゃんの大切なものとか、気に入ってるものとか、一つ一つ、思い浮かべるんだよ。ほら、やってみて。
- 女
- グレの写真。
- 男
- サンキュウ。
- 女
- ペパーミントのにおい。アンモナイトのぺーパーウエイト。回転木馬。落ち葉に埋まった秋の公園。
- 男
- 公園は僕も好きだ。
- 女
- 散歩したよね、よく。
- 男
- 今でも行く?
- 女
- うん。
- 男
- 今度、あそこで待ち合わせしようよ。
- 女
- グレと?
- 男
- その時は、みんな連れていってあげるよ。かなちゃんのおばぁちゃんとか、おじいちゃんとか、学校の時の友だちとか、かなちゃんが好きだった、あっちへ行った人、みんなさ。
- 女
- 約束だよ。
- 男
- うん。
- 女
- グレ、あっちへ行って、3年になるね。
- 男
- もうそんなになるんだね。
- 女
- 18歳だったね。
- 男
- うん。
- 女
- 父さんは、犬にしては長生きだって、言ってたけど、でも、悲しかった。だって、私よりも、若かったんだから。
- 男
- 18年、僕は楽しかったよ、かなちゃんと一緒で。
- 女
- 本当?
- 男
- 本当さ。
- 女
- … 私は目を閉じる。目の中で、虹色の回転扉がつぎつぎに開いて、なつかしい人たちがあらわれては消える。おじいちゃん、おばあちゃん、小出君、都倉君…、そして、グレも。グレは、灰色の尻尾を振って、私を見ている。
- END