- 岡本
- 夕方のラッシュ前の電車、人影はまばら。
僕は向かいの座席の女性が気になっていた。
浅黒い顔に白いカラー……
うつむいて一心に本を読んでいる。
どこかでみたような…
僕は手帳を取り出し、出張のスケジュールを確かめた。夕方六時、もう一人訪ねれば終わり。最終の新幹線には十分間に合う。
- (電車が駅に着く)
- 薫子
- 岡本くん?
- 岡本
- あーー…薫子さん?
- 薫子
- 何してるの?こんなところで。
- 岡本
- こんなところでって…薫こさんこそ。
- 薫子
- 仕事?
- 岡本
- 出張です。
- 薫子
- 時間ある?
- 岡本
- えっ…はい。
- 薫子
- じゃ、決まった。付き合いなさい。
- 岡本
- 「くん」にアクセントをつけて呼ぶ呼び方。
挑戦的にいたずらっぽく光る目。そして命令形。
気持ちは一気に学生時代にかえった。
薫子さんの後についてビルの最上階のバーカウンターに座った。
- 薫子
- ふぅ、うそみたい。岡本君とこんなところで会えるなんて……… 山歩きしてる?
- 岡本
- いやー。この二年くらい、さっぱりです。
- 薫子
- 亀が一番似合ったよね。岡本くんは。
- 岡本
- ひどいなぁ。
- 岡本
- 亀とは大鍋をザックの後に背負った姿をいってるのだ。
秋の合同合宿、男達はパーティーの一切合財、全てをしなければならない。例えば、荷物持ち。一人の肩にかかる重量はおよそ六、七十キロ。
テント、大鍋、燃料、食料……
例えば設営、例えば料理……女の子は花を摘んで、ちょうちょのように遊んでいた。
薫子さんは小さいザックにシュラフの身軽な格好。
無口になっている僕たち一年生に「もう少しだよー。がんばれー!」と明るい声をかけるのだった。
- 薫子
- ふふふ……岡本くん少しは強くなった?
- 岡本
- もちろんですよ。鍛えられましたから。
- 岡本
- 夏は日焼け、冬は雪焼け。ワンゲルの仲間たちは男も女も年中真っ黒だった。
中でも、薫子さんはひときわ黒く、細く、少年のようだった。大きなザックにつぶれそうにみえても、足はいつも大地をしっかりとらえ、どんな女の子よりも強かった。
- 岡本
- 薫子さん、山は?
- 薫子
- うーん…とんと縁がなくなっちゃった。
- 岡本
- あんなに熱心だったのに?
- 薫子
- そう。人生はいろいろなんだよ。
- 岡本
- 一度だけ、薫子さんがつぶれたことがあった。
頭から水をかぶった後、血の気をとりもどすと、そばの岩にすわり、目を閉じて風に吹かれていた。
首筋のうぶ毛が太陽で金色に光っているのをぼくはまばゆい思いで見ていたような気がする。
- 薫子
- ほら…見て。
- 岡本
- ……
- 薫子
- 夕陽。この季節、この街では太陽は海に沈んでいくの。
- 岡本
- …出張に来て、こんな夕焼け見られるとは思わなかったなぁ…
- 薫子
- 見たいって思えば、どんなところにいたって、見られるわ。街の真ん中にいたって、夕陽を見てる人の後姿をとうしてだって……
- 岡本
- しばらくの間、ぼくたちは黙って夕日をながめた。街は黒いシルエットに変わっていく。喧噪が遠のく。ぼくは薫子さんの小さいけれど確かな鼓動を感じていた。
「秘密よ。このトワイライト見物席」
薫子さんはいたずらっぽくささやいた。
- 薫子
- 楽しかったわ。
- 岡本
- ぼくも、うれしかったです。
- 薫子
- ふふ、岡本くん一年生のまんまね。
- 岡本
- 薫子さんだって変わってないですよ。
- 薫子
- そりゃないよぉ。ほら、このあたり、少し色っぽくなってるでしょ。「いい女になった」くらい言ってごらんなさい。
- 岡本
- 薫子さんはそういってすっと立ち上がった。
シースルーのエレベーターに乗って、地上に降りるまでのほんのわずかな時間に、太陽は沈みきった。
- 薫子
- またどこかで、今日みたいに会えるとうれしいね。
じゃ…。
- 岡本
- 薫子さんは笑顔を見せて、さっそうと人混みに入っていった。
当時と違って、肩までのばした髪がフワーとゆれた。
信号は赤に変わろうとしている。
ぼくは小走りに街に飛び出した。