- 女
- ある日突然思う。どこかに行きたい。どこでもいい。
こことは別のどこかへ。うだるように暑い夏の朝、出勤の支度をしていた手をとめて、押し入れの奥からかばんを取り出す。この前に行った時のままの、洗面用具と水着。いつもとは反対のホームに滑り込んできた急行に飛び乗り、まどろんで目を覚ますと海だ。はじめての町。
駅前にたった一台、止まっていたタクシーに乗る。
「この町に、どこかに泊まれる所あるかしら。ホテルか旅館か」
- 男
- 「一軒だけありますよ。」
今日も、また一人やってきた。俺の客はみんなあのホテルの部屋に、気持ちよくおさまっている。ホテルからは海が近い。
それがあそこのたった一つの売りだ。
他には何もない。
- 女
- 海の見えるホテルのベッドに座って、ふと考える。
会社に電話をしようか。受話器を取り上げ、指が止まる。なんの為に?
なにを言い訳しようというの?
受話器を戻すと電話が鳴る。
(電話のベルの音。女、受話器を外す)
「もしもし?」
- 男
- 「あの、俺、さっきのタクシーの… あんた忘れ物したね、手帳」
女の忘れ物は、赤い革の手帳だ。たくさんの住所録。
びっしりと詰まったスケジュール。
- 女
- 「今、どこにいるの?」
- 男
- 「ホテルの前だけど」
- 女
- 「取りにいくわ」
- 男
- 「フロントに届けてあげるよ」
- 女
- 「一緒に海まで付き合ってほしいの」
- 男
- 「いいけど」
海の色は沖で二つに別れている。海流がぶつかっているのだ。
ここは、魚の種類も多い。
- 女
- 「あの部屋、青いのね。壁も天井もベッドも。
まるで、海の底にいるみたい」
- 男
- 「今日、会社休んだんだね」
- 女
- 「時々、どうしようもなく海が見たくなるの。私のなかにある 小さな海が干からびてしまうと、あわてて補給しに 行きたくなるのね。」
- 男
- 「君の海?」
- 女
- 「ほら、ここよ」
- 男
- そっと、女の胸に耳を寄せる。いったい何人になるんだろう。
干からびた海を抱えて、この町に迷い込んで来たまま住み着いてしまった人間たち。そういう俺だって、かつてはこの町にやってきた一人の旅行者にすぎなかったんだ。
女は、もう赤い手帳のことを忘れている。
- 女
- 「ね、聞こえる?」
- 男
- 「聞こえるよ…。波の音だ」