- 登場人物
- 川口 靖 33歳
赤井 姿子 33歳
- 落ち着いた雰囲気のバー
静かにジャズが流れ、時折、マスターの酒を作る音が聞こえる。
- 姿子
- ジントニック。
- 靖
- バーボン・ウイズ・ミルク。
- 姿子
- やだ、川口君。今もそんなもの呑むの。
- 靖
- そんなものってことないだろう。
- 姿子
- だって。
- 靖
- 姿子、変わった。
- 姿子
- なにが?
- 靖
- あのころは、ちょっと呑むと、ぽっと頬を染めてたって感じだったろ。男どもはそれが艶っぽいってさ。
- 姿子
- いやだ、そんなこと言ってたの。
- 靖
- そりゃあ、言うよ。
- 姿子
- 10年だよ。
- 靖
- そっか…旧友の再会に乾杯!
- 姿子
- 乾杯!
- 靖
- 色々あった?
- 姿子
- あったよ。ヤボなこと聞かないで。
- 靖
- ヤボってことないだろう。大恋愛して、大失恋して、磨いてきたんだろう、女を。
- 姿子
- そんなに磨きがかかってる。
- 靖
- ピカピカしてるよ。さっきも男どもは、その話題でもちきり。普通、30過ぎれば、女もやつれが見えるだろう。赤井さんは見えないんだよなって。
- 姿子
- 川口君、いつからそんなに口がうまくなったの。
- 靖
- そりゃあ、ちっとは世間擦れしましたよ。
- 姿子
- 川口君は変わらないと思ってたのに。
- 靖
- 10年だぜ。
- 姿子
- 結婚して何年?
- 靖
- 3年。赤井さんは結婚しないの。
- 姿子
- さあ、どうかな。
- 靖
- 失敗したな。
- 姿子
- なにが?
- 靖
- ダメ元でも、赤井さん口説いてみるんだったな。
- 姿子
- 心にもないこと言って。
- 靖
- いや、ホント。
- 姿子
- じゃあ。このまま二人でどっか行っちゃおうか。
- 靖
- またまた、そうやって人を試す。
- 姿子
- 本気だぞ。
- 靖
- 赤井さん、酔ってる?
- 姿子
- 平凡な言い方しないで。
- 靖
- あ、やっぱり酔ってる。
- 姿子
- 怒る。
- 靖
- で、どんな男が赤井さんみたいなイイ女を泣かせたの?
- 姿子
- 川口君に似た奴。
- 靖
- またぁ…
- 姿子
- ホントだよ。とってもキザ。
- 靖
- お願いだからさ。
- 姿子
- 奥さん可愛いんでしょ。
- 靖
- どうだろ?
- 姿子
- 無限の世界は見つかった?
- 靖
- え?
- 姿子
- 無限の世界を見つけるって言ってたでしょ。
- 無音。
- 靖
- 忘れてた。学生の頃、そんな詩を書いたことがあった。
- 姿子
- 覚えてないの?「2DKの部屋。夢も希望も文学さえもそこには無いと人は言う。でも、ボクは信じてみたいのだ。無限の世界がつまっていることを」
- 靖
- よく覚えてるな。
- 姿子
- 当たり前でしょ。川口君はアタシにとって詩人なの。かっこよくもなかったし、遊び上手でもなかったけどね。
- 靖
- ひどすぎる。
- 姿子
- だって、ほんとだもん。で、どう?結婚して無限の世界が感じられた?
- 靖
- さあ、どうだろう。
- 姿子
- 分からないの? アタシ、川口君の言葉、ずっと信じてきたんだよ。
- 靖
- 赤井さん、生きてて、地球が回ってるって感じられる?
- 姿子
- どういうこと?
- 靖
- 所帯染みた2DKに無限の世界があるかどうかボクには分からない。でも、仮に無限の世界があったとして、その中にいる奴は無限の世界が見えるんだろうか?
- 姿子
- じゃあ、あの詩は意味がなかったの?
- 靖
- そうじゃなくて。生活感のなかった青二才にこそ、見えたってことだよ。
- 姿子
- じゃあ、アタシはどうなるの。男と暮らしてみて、そこには無限の世界のかけらもなくて、幻滅して愛を捨てて。馬鹿みたいじゃない。
- 再び、無音。
- 靖
- ボクの言葉が彼女にそれほどの影響を与えたことが驚きだった。気晴らしに昔の友達と軽いお喋りをしようと言うつもりが、とんでもない迷路に迷い込みそうだ。
- 靖
- 嫁さんとね、子供をつくるかどうか、よく話をするんだ。嫁さんはね、子供が好きじゃないらしい。でね、子供が出来ると自分への愛が減るとか。もし、出来た子供が可愛くなかったらどうしようとか、色々言うわけ。
- 姿子
- 川口君は子供がほしくないの。
- 靖
- 嫁さんもボクに聞く。
- 姿子
- で、どうなの。
- 靖
- 分からないんだ。
- 姿子
- どうして?
- 靖
- 分からないんだ。ただね、無限の世界って、そういうことのような気がする。時々、出来ちゃったら、悩まなくてすむなって思う。そういうイージーな生き方も馬鹿に出来ないってことが分かってきた。
- 姿子
- それは結局子供がほしくないってことじゃない。それを持って回った言い方してるだけ。アタシは子供を2回もおろした。もう、生めないかもしれない。だからね、最近はフォスターペアレントになりたいって思う。どんな子の親になるか、どんな母親になれるか分からないけれど、子供を愛することは出来ると思う。この気持ち、川口君に分かる?
- 無音、あるいは、店とは違った雰囲気の音楽
- 靖
- ボクは彼女の問いに答えれなかった。調子のいい言葉で出口を探そうとした自分があさはかで恥ずかしくもあった。「2DKの部屋の中の無限の世界」このボクの言葉に力があるわけじゃなかったのだ。ボクはそれ以上喋る言葉がなかった。彼女も無言でグラスを空けた。ネオンの向こうに消える彼女を見送りながらもう会うことはない確信だけが残った。