- 谷間の静かな温泉宿。その部屋。8月のある夕暮れ。窓の近くの椅子に座っている若い男。浴衣を来ている若い女。
- 女
- ねぇ。帯ってこれでいいの。
- 男
- いいんじゃない。
- 女
- こんな結び方で?
- 男
- いいって
- 女
- おかしくない?
- 男
- おかしくないよ。
- 女
- 浴衣、着ないの?
- 男
- …いいよ、このままで。
- 女
- 何やってるの?…何パズル?
- 男
- え…うん…。
- 女
- よくそんなの持ってくるひまあったわね。
- 男
- バカ、ここに置いてあったんだよ。
- 女
- ね、お風呂、行こうよ…。
- 男
- …うん…。
- 間。女、窓を開ける。そして、しばらく外を見る。
- 女
- …行かないの?せっかく温泉まで来たのに…。
- 男
- 行くって、ちょっと待ってよ…。
- 女
- …。
- 間。
- 女
- ね、あれ、なんて山?。
- 男
- え?…何とか冨士っていうんじゃないの。冨士山みたいだから…。
- 女
- …大きいね…。高いね…。上の方、雲で見えないもん…。
- 男
- …なあ…。
- 女
- うん?
- 男
- ほら、…渡さなくていいの?
- 女
- 何?
- 男
- さっきの宿の人、女中さんっていうの…。
- 女
- 何を…
- 男
- お金包んで…。渡すんじゃないの?
- 女
- ああ…
- 男
- いいの、しなくて…。するもんじゃないの? こういうとこって。
- 女
- うん…
- 男
- いくらぐらいなんだろう…。
- 女
- …。いいよ、お金ないし、…若いんだから、私たち。
あんなこと、中年のおじさんがやることよ。
…知らんふりしてりゃ いいわよ。
- 男
- いや、でも、いいのかなぁ
- 女
- いいわよ。
- 女、サンダルをはいてベランダに出る。
- 女
- …ああ、気持ちいい…。(と、のびをして、手すりに寄りかかる)
- ねぇ、ねぇ…湖、まだ、ボートに乗ってる人がいるよ。
- 男
- …へぇ…。
- 女
- (振り返り)もうやんないの?
- 男
- え?
- 女
- それ、…パズル。
- 男
- ああ、…うん。
- 女
- …どうしたのよ。
- 男
- ええ?
- 女
- 元気ないじゃない…。
- 男
- …そんなことないよ。
- 間。女はまた、山と湖の方を見る。
男は部屋からその後ろ姿を見つめている。
- 女
- 今ごろ、みんな捜してるかな…。
- 男
- …うん…。
- 女
- …ね、見た、あの山、まだ、雪が残ってる。
- 男
- うん…。
- 女
- …静かだね。
- 男
- うん…。
- 女
- 遠くまで、来ちゃったね。
- 男
- …うん。
- 女
- 後悔してる?
- 男
- してないよ。
- 女
- 本当?
- 男
- うん。
- 女
- じゃ、このまま、ここで、死んでもいい?
- 男
- …いいよ。
- 女
- (笑ってしまって)…本当?
- 男
- 本当だよ。
- 女
- もう、誰にも会えないのよ。お父さんや、お母さんや、
ワタナベ君たちにも…。私、以外、誰にも…。
いいの?
- 男
- ええ、どうして。
- 女
- (制して)ダメ、ダメなの。…それが決まりなの。ルールなの…。
- 男
- …。
- 女
- (真剣に)…私は、それでも死ねるわよ。
ここで、二人っきりで…あなたと…死ねるわよ。
- 女、男を見つめていたが…、やがて、湖の方へ向いて
- 女
- …明日、かえろっか。
- 男
- ええ?
- 女
- やっぱ、いやよね。こんな淋しいとこ。
- 男
- …。
- 女
- だって、コンビニもないのよ。
- 男
- …何いってんだよ…。
- 女
- あ、今日、花火大会だよ。みんな、そっち行ってるかな。
私たちのことなんか忘れて…。ねえねえ…ここから見える花火?
- 男
- 見えるわけないだろう。
- 女
- 今年こそ、浴衣来て行こうって思っていたのに。
- 男
- …。来てるじゃない、浴衣…。
- 女
- こんなのじゃなくて。…お母さん、用意してくれてたのになぁ…。
こうやって、盆踊りにも行ってさ…。ね、うまいでしょ…。
- と踊って見せる
- 男
- うん。(と笑って)
- 女
- このまま踊りながら、お風呂場行ったりしたら、
笑われるかな…。
- 男
- (笑いながら)いいんじゃない別に…。
- 女
- じゃ、あたし、先、行ってくるね。
- と、言いつつ、女には踊りながら遠ざかる。
男は、それを見ながら笑っている。
しかし、だんだん笑えなくなって…、ため息をつく…。