- 私(N)
- 神戸に行こう。そう思ったのが三日前。東京発ひかり109号。
はじめてのひとり旅… きっかけは、古ぼけた一枚の写真だった。
- 男
- あの…
- 女
- え?
- 男
- そこ、僕の席なんだけど。
- 女
- (あわてて)あ、ごめなんなさい。誰も来ないのかとおもって…。
隣なの。今、代わります。
- 男
- いいよ、そのままで。
- 女
- え?
- 男
- 窓際の方がいいでしょ。景色が見られて。
- 女
- いいの?
- 男
- どうぞ。行き先も一緒みたいだし。
- 女
- え、どうして…
- 男
- だって、それ。
- 女
- あ。
- 女(N)
- そうか、膝の上に、北野界隅の地図を広げたまま…
この時、私は彼に、何もかも話してみたい衝動にかられた。
なぜだか分からない。ただ…
- 女
- あなたも神戸に行くの?
- 男
- いや、僕は帰るんだ。
- 女
- ね、これ、見てくれる?
- 男
- 写真?
- 女
- 裏を見て。
- 男
- … 1953年、春。桜の下にて、佐和子、6歳 神戸、北野町。
- 女
- 佐和子は、母の名前。その桜は、母が生まれた日に、
記念に植えたものなんですって。
母は、6歳まで神戸にいたの。
これ、引っ越す前に撮った写真だと思う。
今日ね、私、この場所を探しに行こうと思って。
- 男
- 北野町か。
- 女
- この間、母が亡くなって…。私、一人きりになってしまって…。
この写真ね、遺品を整理していて、見つけたのよ。
なんだか とてもなつかしい感じがして…。不思議でしょ。
一度も行ったことがないのに。
- 男
- それはたぶん、ここが君のふるさとだからじゃないかな。
- 女
- ふるさと?
- 男
- 帰りたい場所。 望郷って、古い映画。
ジャンギャバン扮するペペって男がいたんだ。
ペペはパリから、アルジェに逃れてきた凶悪犯でさ、高い丘の
上に あるカスバって所に身を隠していたんだよ。
…ぺぺは、高い丘の上から、いつも海を見ていた。
港からでる船を見ては、いつかパリに帰りたいと思っていたんだ。
ぺぺにとって、港は自由への出口だったんだよ。
あそこから、船に乗りさえすれば、自由になれるってね。
…でも、ぺぺは帰ることができなかった。自由行きの切符を
手にしながら、撃たれて、死んでしまうんだ。…この女の子、
君のお母さんさ、坂道の下に広がっている海を見ていたんじゃ
ないのかな。
- 女
- 海を?
- 男
- うん。ほら、カメラの方ではなくて、もっと、遠くを見ているだろう。
ぺぺの見ていた海も、希望につながっていたのかもしれない…。
- 女
- …変わったでしょうね。神戸も。
- 男
- うん…でも、海は変わらないし、僕も負けない。
- 女(N)
- そう言って彼は笑った。きれいな笑顔だった。
とうとう私はやってきた。母の生まれた街に。
地図をたよりに入り組んだ路地を歩く。坂道から坂道へ。
夕暮れが、影を落とし始めた。みつけられないかもしれない。
やはり考えが甘かったのだ。
泣きそうな思いで、 いくつめの角を曲がる。 と…
- 女
- さくら?
- 女(N)
- それは見事に咲いた、遅咲きの桜だった。
- 女
- あ、海!
- 女(N)
- 振り返ると、道のはるか下に、海が広がっていた。
海は、家々の間から、宝石のように小さく、輝いている。
私は桜の木にもたれて、じっと、海を眺めていた。
かつて、母が見た景色のなかに、今、私はいる。
桜の花びらが、過ぎていった時のように、私の肩に落ちていった。
母さんの桜! 母さんの生まれた ふるさとの海!
- 女
- ただいま! 私、帰って来たわ。ここに、帰ってきたのよ。
- 男
- やあ。
- 女
- あ、あなたは…
- 男
- あえたね。君のふるさとに。