第187話(99/10/29 ON AIR)
『アキナイ』 作:深津 篤史



はるか遠くに街の灯が見える。
こんにちわ。さようなら。こちら月面探査船1号
地球応答願います。
何。
こんにちわ。さようなら。こちら月面探査船1号
地球応答願います。
何。
女のセリフの背後に雨がある
察するところそちらは雨のご様子ですが、こちらは
いいお天気が続いております。もちろん月ですから
月に雨が降るわけもありません。
昨日は友達と飲みにいったの。2人でボトル一本
空けちゃて。うちまで送ってもらったの。せっかく
だからって部屋でまたのみ直して、気がついたら
鳥が鳴いていたわ。友達は今しがた帰ったところ。
私はずっと一人です。地球の満ち欠けを定点観測す
る仕事です。そうそう今夜は地球が丸く見えます。
一杯のみながら地球見と酒落こんでいるところです。
いえいえ何分、一人ですから勤務中の飲酒は大目に
見て頂いております。
帰るまでに3回したわ。私達盛りのついた若者みた
いねって2人で笑った。でも気持ちいいんだもの。
月は見渡す限りの砂漠です。ありきたりな表現です
が一面の砂漠です。ラクダに乗った隊商も、もちを
つくウサギもかぐや姫の宮殿もありません。ただ、
地球のながめは絶品です。私は淋しくありません。
男の人と体を重ねていると落ち着く。けど一人が淋
しいって訳じゃない。おフロに入って好きな音楽を
かけて、けっこう幸せ。今日は雨の音を聞きながら
寝る。
こちらはずっといいお天気です。雨も風もありませ
ん。何より音がありません。
そう。
人の声が聞きたくなる時もあります。ちょうど今が
その時です。私は少しよっぱらっています。地球の
青さが目にしみます。一人、秋晴れの青空をみあげ
た、そんな気分です。どんな気分かって説明のしよ
うがありません。詩人であれば、何か美しい言葉で
自分をなぐさめる事もできるのでしょうけれど。
もう、切るわね。
はい。
電話の切る音。発信音がしばらくひびく。
こうして何年になるんだろう。
電話が鳴る。
もしもし
こちら地球、月面探査船1号、聞こえますか。
…。
女のセリフの背後に雨がある。
こんにちは。さようなら。こちら地球、月面探査船
1号応答願います。
もしもし。
こちらは雨が降りつづいています。今、夜の11時
26分。月は雲に隠れてみえません。雨の音だけが
聞こえます。地球の、日本の、私のうちにふる雨の
音です。聞こえますか。
もしもし。
ぶ厚い雲の層が、電波の流れをさえぎっているよう
です。私の声、届きますか。私のうちの雨の音、聞
こえますか。
こんにちは。さようなら。こちら地球、日本、私の
うち、月面探査船1号、応答願います。
こんにちは。さようなら。こちら月面探査船1号、
よく聞こえます。地球は青く丸く私の前にあります。
窓あけてみて
あけてみて
空気が全部流れでてしまいます。
おねがい
月に空気はありません。雨も風も水もありません。
建物もありません。ラクダの隊商も、もちをつくウ
サギもかぐや姫の宮殿も、空をとぶ鳥も、野をかけ
るけものも、人恋しい秋晴れの空も、はく息の白さ
に気づく事も、こんなものさびいし雨の夜も、悲し
い目で笑う君の姿もありません。何もない夜の世界
です。
ごめんなさい。何度も電話して。
いい加減、アキてきたので窓をあけてみることにし
ます。
ほら、外はものさびしい雨の夜です。
男のセリフの背後にも雨がある。
こんな夜は君に会いたくなります。
いいの。
(少し笑って)少しおそくなります。
うん。
地球の日本の君のうちはここからだと少し遠いです。
うん。
日付が変わるまでにまいります。
あと30分。
はい、まっててください。
電話の切る音。発信音がしばらく…
こんにちは。さようなら。こちら地球、にほん、私の
うち。君のいる夜まで、あと30分。