第185話(99/10/15 ON AIR)
『銀杏』 作:久野 那美



チャイムが鳴る。放課後。
斜めに日の射し込む美術室。翔子が画材を広げている。
松村が入ってくる。翔子の後ろに立って。
松村 何描いてんの?
翔子 壁。
松村 壁?
翔子 あそこの、マンションの、壁。4時の壁。
松村
4時の壁。
翔子
時間が経つと色変わるから。
松村
(壁を、見る)古いね。ずいぶん。
翔子
このあたりで一番古いよ。きっと。
松村
誰が住んでるんだろ。
翔子
知らない人。
松村
そうだけど。
翔子
知ってる人も住んでるかもしれないけど。
松村
…。
     間
松村
なんで汚れんのかな。       
翔子
え?
松村
誰も触らないのに。
翔子
だって。雨とか。風とか。出しっ放しだから。
松村
そっか。
翔子
そうだよ。
 松村、壁を描いてる翔子と翔子に描かれている壁を見ている。
翔子
何してんの?       
松村
別に。
翔子
そう。
松村
…。
翔子
あっちのマンションの壁、描く?
松村
…。
  間
翔子
銀杏の木。色変わっちゃった。  
松村
うん。
翔子、手を止めて窓の外の銀杏の木を見ている。      
松村も。しばらく、ふたりで見ている。      
窓の外には柔らかい風が吹いている。
翔子
めずらしいね。
松村
たまにはいいかな、と。
翔子
芸術の秋ですか。
松村
秋は関係ない。
翔子
そう。
松村
芸術も、関係ない。
翔子
そう。
松村
…美術部、なくなると困る?
翔子
困りはしないけど。
松村
別のとこ入るの?
翔子
どうしようかな。どうするの?
松村
うーん。
翔子
つぶれるかな。
松村
ふたりじゃね…。
  間
 松村は壁に立てかけてあるキャンバスを見ている…。
松村
…あいつ、なんで色ぬらなかったのかな。  
翔子
え?
松村
銀杏の木。
翔子
(キャンバスに描かれた絵を見ている)銀杏の木…。
松村
銀杏の木。
翔子
知らなかった。いつ描いてたんだろ。
松村
あれ?(窓のそとを見ている。運動場の隅に銀杏の木が数本。    
風に吹かれて立っている。
翔子
色変わっちゃうのにね。
松村
翔子
銀杏の木。
松村
うん。
  間
翔子
松村君、さあ。なんで美術部に入ったの?  
松村
え?…なんとなく。
翔子
なんとなく。
松村
なんで?
翔子
ほんとに部室こないじゃない。
松村
…。
翔子
描いてるとこみたことないし。
松村
今日は来てるじゃない。
翔子
来てるけど。
  間
翔子
中学の時も美術部だった?          
松村
いや。ギター部。
翔子
今時そんなのがあるの?
松村
すぐつぶれた。部員集まらなくて。
翔子
どこも大変だ。
松村
伝統あるクラブだったらしい。
翔子
ふうん。
 松村、なんとなくその辺にある日誌をぱらぱらめくってみる。
松村
9月1日。
翔子
…。
松村
(日誌に書き込んでいる)えーと、9月1日木曜日。曇り。
翔子
曇り?…さっきまで晴れてたのに。
松村
そう?
翔子
うん。
  間
翔子
日記って。               
松村
え?
翔子
なんで自分のことと、暦のことと、空のことと書くんだろ。
松村
空?
翔子
空がどんなだったか、何してたか、みんな自分の日記に書く。
書かないと落ちつかない。変なの。
松村
…。
翔子
今日がいつで、自分は何をしてて、空はどんなだったのか。
 松村、日誌をめくっている。
翔子
8月5日。水曜日。曇り。8月6日木曜日。晴れ。8月7日金曜日。雨。
8月8日土曜日。雨。8月9日。日曜日。晴れ。…
翔子
 手紙書いたよ。今日。
松村
翔子
どこ行ってたの?ホームルームで。
松村
…。
翔子
どこ行ってたの?
松村
……。
翔子
渡辺先生が、みんなに説明した。
松村
みんな知ってるのに?
翔子
知ってることしかしらないのに。
松村
なんで花飾るのかな。
翔子
え?
松村
後ろの席から黒板見えないじゃないか。
翔子
黒板見えないからいなかったの?
松村
そう。
翔子
夏の花は嵩張るからね。派手だしね。
松村
夏の花なんだ。
翔子
そうじゃない?
松村
2学期は秋なのに。
翔子
だけど…、まだ暑いじゃない。
松村
夏休みはもっと暑かった。
翔子
そうだった?
松村
…。
翔子
…暑かったね。
松村
…。
翔子
涼しくなるよ。これからどんどん秋になる。
松村
…。
翔子
でもね。夏の花だよ。あれ。
   間
松村
あいつ、なんで色塗らなかったんだろ。
翔子
え?
松村
わかんないじゃないか。
翔子
松村
夏の銀杏なのか。秋の銀杏なのか。
翔子
どっちだと思う?
松村
…。
翔子
どうして…。
  間
翔子
どうして、色塗らなかったんだろうね。
 翔子、スケッチブックを閉じて窓の外を見ている。
松村
描かないの?
翔子
え?
松村
壁。
翔子
今日はもうおしまい。
松村
ふうん。
 校内放送が入る。
放送「下校時刻を過ぎています。教室に残っているひとはいませんか?    
最後の人は教室の鍵を閉めて帰って下さい。下校時刻を過ぎています…。
下校の音楽。
風に乗って。薄からし色の銀杏の葉がゆっくりと舞い落ちた。
こころなしか日差しもすこし和らいで。秋の気配が近づいている…。