第177話(99/08/20 ON AIR)
『駅舎にて』 作:深津 篤史


目覚めるとそこは浜辺の駅であった。
ホームに人影はなく、松林の合間に海が見えた。
波は音もなく白いヒマツをあげていた。
日は西に傾き辺りはオレンジ色のモヤがかかったようで
線路は黒く甲虫のような輝きを放っていた。
ピーッとするどく警てきの音
私の左手に時計はなかった。時刻表はイミをなさなかった。  
待合の古びた時計は止まったままだ。
駅員の姿は見当たらない。
電車のゆきすぎる音
遠く海へと続く電車道は砂浜の途中で途切れている。
ふとそんな事を思った。
じっさい、線路のゆき先は松林の中を蛇行して消えていた。
貴方もこの駅で降りたのですか
麻のワンピースを着た女がそこにいた。
女はずいぶん前からそこにいたかのようでほほに汗が伝っていた。
私、この町の生まれなんです。貴方も?
駅は山がすべりこむように海となる所にあった。
山と松林と海が見えた。見渡す限り町などなかった。
ほら。
女の指差す先にはためくものがあった。
波うち際にポツンと建てられたそれは海の家を思わせた。
お盆を過ぎるとクラゲが出るからね
私はどれ位ねむっていたのだろう。
首すじのウラあたりが日焼けしたらしくヒリヒリと火照っていた。
赤や白の水菓子のようなカタマリでいっぱいになるの。
足はないの、私の記憶では。だから刺しもしないの。
けど気味悪がって誰も海に入らない。   
私はボンヤリ海をみていた。そうか、音のないのはそのクラゲの
せいなのだな。クッションか何かになっているのだろう。
いいえ、違います。そんなバカな事はありません。
ザワザワと風がふきぬけた
今のは私の言葉ですか。私は女にたずねた。
たしかにそれは私の二の句であったからだ。
おかしな人ですね。
女はそう言ったように見えた。
女の眼は先刻の風の行き先を追っていた。
貴方は今、松の木をゆらしました。
砂をまきあげて、私の家を通り過ぎました。
波にまじって消えました。 
女はそう言って少し笑って、イタズラっぽい目で私をみつめた。
私は戸惑って女の傍に腰をおろした。
アイスクリームは好き?
私は黙ってうなづいた。女がうれしそうに笑う。
私はすてられた子供のように素直だった。
おさとうと牛乳と卵で作るの。
私の母の手作りのアイスクリーム、飛ぶように売れたものよ。
夏の盛りの頃はね。
西日はいっそう強く私はかわいていた。
ごめんね。今はこんなものしかないけれど
女は水とうをとり出し、キャップをはずして私にすすめる。
白い指が西日に輝いていた。おうちでわかしてにだして作った麦茶。
まだ冷えてるでしょ、と女が言う。私はのどをうるおした。
おいしい?
私は黙ってうなづいた。
これがガラスのコップだったら、きっとごちそうみたくおいしいのにね。
全くそうだと私は言う。女は笑って私をみつめる。
女の眼がとても美しい事に私は気づいた。
瞳にオレンジのモヤがうつっていた。
貴方はずいぶん色が白いのね。
私は急にはずかしくなった。子供の頃の事を思い出した。
ムキになって日焼けを競った小学生の頃を思い出した。
そういえば、もう長い事、夏の日射しの中にいたことはなかった。
クーラーの効いた都会の街並みを思い出した。
うだるような暑さから逃げこんだ暗いキッサ店の店内を思った。
車の行きすぎる音、クラクション、都会のざわめき
私は旅行カバン一つさげていない事に気付いた。
ここは田舎の浜辺の駅である。
遠く海へと続く電車道は砂浜の途中で途切れている。
きれいね
ざわめき 女の声でとだえる。
あいかわらず女が私の傍らにいた。
女の言葉は私の白い二の腕に向けられた
ものなのか、このオレンジ色のモヤに向けられたものなのか、
女の眼はもう遠い松林をみていた。
ピー、 電車の警笛
次の電車で帰ります。
女は立ちあがった。私は女を見つめる。
女は少し笑ってうなずいた。
遠く波音がきこえてきた。
どこへ
なんだ
え?
しゃべれたんですね
電車のゆきすぎる音
女はもうそこにいなかった。ここは田舎の浜辺の駅である。
遠く海へと続く電車道は砂浜の途中で途切れている。
ここが何という駅であるかそんな事はもうどうでも良い事であった。
  了