第163話(99/05/14 ON AIR) | ||
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『ゆるやかな有限の分母』 | 作:花田 明子 |
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浩一 | あ、すいません。もう閉店なんですよ。すいません。 |
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再び喫茶店のドアの鐘の音(閉まる音)。 「カランカランカラン」 |
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由紀 | あ。 |
マスター | ああ、いい、いい。由紀ちゃんは別。 |
由紀 | けど……。 |
マスター | 何言ってんの。いいからいいから。…それより、はい。 |
コトリとカップの置かれる音。 | |
由紀 | え? |
マスター | あれ、ミルク駄目だったっけ? |
由紀 | いや、駄目じゃないけど、 |
マスター | そっか。なら飲んで、飲んで。サービス。 |
由紀 | すいません。 |
マスター | いや、お礼はこっちが言う方。その牛乳、今日がリミットだから。 |
由紀 | え? |
マスター | 賞味期限。今日中だから。 |
由紀 | ああ…じゃあ、遠慮なく。 |
マスター | うん。 |
由紀 | (溜息)はぁー。 |
マスター | ……浩一君も忙しいんだね。 |
由紀 | ねぇ。 |
マスター | ねぇって。 |
由紀 | 忙しがってはいますけど、どうだか…。 |
マスター | そうなの? |
一瞬の間 | |
由紀 | いや忙しいのは確かだと思いますよ。 |
マスター | 3年目だっけ? |
由紀 | ええ。新入社員が入って来ないからずっと一番下らしいんですけど、 |
マスター | じゃあこきつかわれてるわけだな。 |
由紀 | みたいですよ。 |
マスター | そっか……。 |
由紀のミルクを飲む音。 | |
由紀 | 今、こんなに忙しいってことはどうなることだか。 |
マスター | 来年だっけ、結婚? |
由紀 | 6月です。 |
マスター | うん。 |
由紀 | 何か始終待ってる毎日の気がしますよ。 |
マスター | まぁまぁ。 |
間 マスターが自分のカップにコーヒーを入れる音。 |
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由紀 | でも、本当にごめんなさい。 |
マスター | (入れつつ)え? |
由紀 | 時間。もう閉店なのに。 |
マスター | ああ、気にしないでよ。 |
由紀 | あと10分して来なかったら出ますから。 |
マスター | 何で、気遣わないでよ。 |
由紀 | いえ、そうします。 |
マスター | そしたら由紀ちゃん場所変えて待つんでしょ? |
由紀 | え?…ええ、まぁ。 |
マスター | だったら無駄なお金使わないでよ。 |
由紀 | けど……。 |
マスター | うちのことなら気にしないで。僕も今日子さん待ってる間、 話し相手がほしいんだから。 |
由紀 | あ、そう言えば今日子さん、おでかけですか? |
マスター | また行ってるんだよ。 |
由紀 | また? |
マスター | ほら、カラオケ。 |
由紀 | …ああ。お友達と。 |
マスター | タバコ屋のご隠居さんだよ。ほら、そこの角の…クリーニ ング屋の隣の。 |
由紀 | ああ。 |
マスター | 最近あそこのおじいちゃんと仲良しなんだ。 |
由紀 | へーえ。いいですねぇ。 |
マスター | いいのかなぁ。まぁボケ防止にはなるかもね。 |
由紀 | ひっどい。 |
マスター | いやでもこれは本当にいい意味で言ってるんだ。今日子さ んも出歩くようになってから、明るくなったしね。 |
由紀 | 前から明るかったじゃないですか。 |
マスター | いや、前より随分オープンになったんだよ。 |
由紀 | そうなんですか? |
マスター | うん。やっぱり入院していろいろ考えたらしいんだ。 |
由紀 | いろいろ? |
マスター | うん。……今日子さん曰くね、僕等の1日と今日子さんの 1日は違うらしいんだよ。 |
由紀 | …どういうことですか。 |
マスター | うんとね……そうだな…例えばね、由紀ちゃんはいくつだ っけ? |
由紀 | 25です。 |
マスター | 25歳。……え、そんなに若いのか。 |
由紀 | 大して若くないですよ。 |
マスター | いやいや……だって今日子さんは76歳だよ。 |
由紀 | あーっと、今日子さんに比べたら若いですね。 |
マスター | うん。まぁ、僕と比べても随分若いけどね、 |
由紀 | そんな。マスターと私だったら一回りくらいでしょ? |
マスター | まぁ、そうだけど……いやいや何の話だっけ? |
由紀 | えーっと……。 |
マスター | ああ、そうそう。今日子さんの1日と僕等の1日の話だな。 |
由紀 | ええ。 |
マスター | うん。今日子さんに言わせるとね、僕等の1日は分母が大 きいって言うんだ。 |
由紀 | 分母? |
マスター | うん。つまりね。まだまだ来年や再来年のことを考えて1 日をすごせるって言うんだ。 |
由紀 | うん。 |
マスター | でもね。今日子さんにとってはね。分母は有限だってわけだ。 |
由紀 | どういうことですか? |
マスター | つまり1日1日が無限に続いていくわけじゃないってことが わかりすぎるほど分かっちゃうらしいんだ。 |
由紀 | …うん。 |
マスター | だから毎日毎日がとても大切だって言うんだよ。 |
由紀 | そんなぁ、それは私も同じですよ。 |
マスター | いや、もちろん僕だってそうだよ。けどね、 |
由紀 | ええ。 |
マスター | 今日子さんは2年先、3年先を考えて毎日を過ごせないって 言うんだ。 |
由紀 | そんな…今日子さん、もう身体は大丈夫なんでしょ? |
マスター | 胃の方はね。もう大丈夫なんだけどね。 |
由紀 | だったら、 |
マスター | 由紀ちゃん、別に今日子さんは悲観的に何だかんだ言ってる わけじゃないんだ。ただね、 |
由紀 | ええ。 |
マスター | 毎日、毎日。時間を大事にしたいらしいんだよ。 |
由紀 | ああ。 |
マスター | 時間が無限じゃないってことを身体できっと感じるんだね。 毎日毎日、確実に老いてゆくのが分かるからこそ、やれるこ とを一杯やりたいんだと思うんだよ。 |
由紀 | うん。 |
マスター | だからね、僕も最近はあんまり口うるさく言わないようには してるんだけど、 |
由紀 | そっか……。 |
マスター | しかしカラオケはなぁ。 |
由紀 | え? |
マスター | 何もカラオケに行かなくてもいいと思わない? |
由紀 | え、マスター、カラオケ駄目なんですか? |
マスター | 駄目じゃないけどさぁ。もっと例えば詩吟とか、囲碁とか何 かそういうのあるだろ? |
由紀 | でも今日子さんはそういうのよりカラオケがいいんでしょ? |
マスター | そうなんだよ。私はパァーっとしたのが性に合ってるとのた まうんだ。 |
由紀 | 今日子さんらしいじゃないですか。 |
マスター | 我が母ながらどうかなぁと思うよ。 |
由紀 | どうして、いいじゃないですか。 |
マスター | そうかぁ? |
由紀 | ねぇ、18番は何なんですか。 |
マスター | え? |
由紀 | 今日子さんの好きな歌。やっぱり演歌とかですか? |
マスター | 行きはじめたころはね。去年の暮れからカラオケにはまっち ゃったんだけど、 |
由紀 | え、じゃあ今は何歌ってんですか? |
マスター | そこだよ。 |
由紀 | え? |
マスター | 最近は僕も知らないようなCDばっかり買って来るんだ。 |
由紀 | というと…、 |
マスター | ラジオ体操しながら口ずさんでるのはほら、男の子の5人グ ループの、 |
由紀 | 5人グループ? |
マスター | 何だっけ…ほら、歌手で、ドラマもやってて、 |
由紀 | 歌手で、ドラマやってて…、 |
マスター | ストップじゃなくて、スコップじゃなくて、スキップじゃな くて、 |
由紀 | やだ、もしかして、 |
マスター | そのもしかしてだよ、 |
そのうち武道館にでも行くとか言い出すんじゃないかと思う とさぁ、 |
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由紀 | ……。 |
一瞬の間 | |
由紀 | (突然笑い出して)何かいいですね。 |
マスター | どこが。 |
由紀 | だって今日子さん、本当に楽しんでそうじゃないですか。 |
マスター | いや、由紀ちゃんは他人事(ひとごと)だから笑ってられる んだよ。想像してみなよ。70過ぎたおばあちゃんと80前の おじいちゃんが二人してカラオケでそんなの歌って踊ってたら さぁ。 |
一瞬の間。 | |
由紀 | (笑って)やっぱりいいじゃないですか。 |
マスター | よく言うよ、他人事だと思って。 |
と、扉が開いた。 「カランカランカラン」 |
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由紀 | あ。 |
マスター | お、待ち人あらわるだ。まぁ、あんまり怒らずにね。 |
由紀 | 今日は大丈夫みたい。何か…はい。 |
マスター | そう? |
由紀 | ええ。今日子さんを見習います。 |
マスター | え? |
由紀 | 今日のところは時間を大事にして、 |
マスター | ああ。 |
由紀 | おいくらですか? |
マスター | ……それじゃあコーヒー2杯分を1年の分母で割って |
由紀 | え? |
マスター | いや、だってまだまだ由紀ちゃんが待つ時間はたっぷりだ ろうからさぁ、 |
由紀 | やだ、何ですかそれ。 |
マスター | 何か計算、ややこしそうだな。いいや。今度くる時までに 計算しとくよ。 |
由紀 | そんないいですよ。 |
マスター | いや、まぁいいじゃない。そういうことがあっても。ここ は今日子さんに免じて、 |
由紀 | 今日子さんに免じて? |
マスター | とりあえず行ってらっしゃい。 |
由紀 | ……じゃあお言葉に甘えて。 |
マスター | そうそう。若者は甘えてくれなきゃ、可愛いくないからね。 |
由紀 | 何ですか、それ。 |
マスター | 行ってらっしゃい。 |
由紀 | はい。 |
由紀、出ていった。 「カランカランカラン」 |
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終わり |