第154話(99/03/12 ON AIR) | ||
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『トントン、聞こえますか?』 | 作:み群 杏子 |
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女 | 今日は家中の窓を磨く。 |
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居間に客間。母の部屋と自分の部屋と、最 後に書斎。書斎は5年前に亡くなった父の部 屋だ。 洗剤を使わず、湿らせた新聞紙でキュッ、 キュッっと磨く。乾いた布で仕上げると、ぴ かぴかになる。 机の前に座って、窓の外を眺める。ソーダ ー水の色をした空が拡がっている。あ、ひこ ーき雲だ。 |
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「パパ、今日、ひこーき雲を見たよ。」 | |
男 | どんなだった? |
女 | 「こーんな。」 |
子どもだった私は、父の背中にひこーき雲 をかいていた。左の肩こう骨から右の肩こう 骨に向かって。 |
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ここに入るのは久し振りだ。父が亡くなっ てからは、誰もこの部屋を使わない。母はさ っさと掃除をすませ、私はしのび足で、必要 な本を捜しに来ては、また戻しに来た。読む のは自分の部屋で、ここではなかった。 ドアを開けると正面に窓があって、窓に向 かって机がある。用があると、私は、机で本 を読んでいる父の背中を、トントンと叩いた。 それが、合図だった。 「とんとん、聞こえますか?」 |
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「ねえ、おつきさまには、うさぎがいるの?」 | |
男 | うさぎじゃないぞ。よくみろ。よっぱらい が酒瓶を持って、うかれているのさ。月は、 死んだ者を、空にある家に運んでいくんだ。 |
女 | 私は、酒瓶を持った男が、ひとりで運ばれ ていく家を想像していた。がらーんとして、 誰も待っていない家だ。「かわいそう」 |
男 | どうして。 |
女 | だって、ひとりきりだよ。 |
男 | ひとりなもんか。いっぱい仲間がいるんだ よ。男も女も、うさぎもかめも、金持ちもそ うじゃないのも、みんないっしょだ。 |
女 | 「のぶちゃんも?」 |
私は、前の年、病気で亡くなったいとこの 名前を言ってみた。 |
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男 | そうだ、のぶちゃんもだ。 |
女 | 「じゃ、さみしくないね。」 |
男 | ああ、さみしくない。 |
女 | 「月はパスだね。死んだ人を、空のお家に つれていくんだ。」 |
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バスが好きだった。特に好きだったのは、 幼稚園の通園バスだ。中はピンクで、天井は 水色。座席には動物の絵のカバーが掛けられ ていた。私の気に入りは、うさぎの絵だった。 |
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「それ、何?」 | |
男 | うさぎの鎖骨さ。 |
女 | 父は、奇妙な細い棒を、うさぎの鎖骨と呼 んで大事にしていた。 |
男 | これを覗くとはるこの未来が見える。 |
女 | 「ほんとう?」 |
男 | およめさんだ。 |
女 | 「どんな?」 |
男 | 白い打ち掛けに、つのかくし。 |
女 | 「はるこ、つのはないよ。」 |
男 | 出てくるんだよ。およめさんになると。 |
女 | 「いやだ。」 |
男 | じゃ、やめるか。 |
女 | 「なにを?」 |
男 | およめさんを。 |
女 | 「うん、やめる。」 |
父は、うれしそうに、笑っていた。 | |
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結婚式の前の日に、家中の窓を磨いてみた くなったことに、別に理由なんかなかった。 空に、大きな夕焼け雲が座っている。 「パパ、残念でした。つのかくしじゃなく て、はるこは、ウェディングベールだよ。」 私は、夕焼け雲の背中に、トントンと、合 図をおくる。 「トントン、聞こえますか?」 |
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END |