第150話(99/02/12 ON AIR)
『あと一時間であなたに会える』 作:み群 杏子




〔電車に座っている中年の女性。
小さな荷物を抱えている。
電車は空気の良さそうな町を走る〕
お嬢さんが戻って来られるということでお暇をいただいてか
ら、もう二年になります。  
家政婦というのは不思議な職業だとつくづく思います。職業と
いうのもあまりぴんときません。人様の家に住まわせてもらっ
て家の隅々まで知っています。外で働く人ばかりの家では誰よ
りも長く家の中におります。それでも家人とは一本の線をひ
き、事情が変わればすぐに暇をだされます。不思議だと思いま
せんか。
あなた 「元にあった場所に返してさえくれれば何をさわろうが使おう
が構わないよ。」
隅々まで知っているとはいっても、どの家でもここだけは立ち
入らないでくれという場所があるものですが、あなたにはまる
でそれがありませんでした。大事な通帳や印鑑も頓着なく私の
前で出し入れをなさいました。他人に警戒心がなさすぎるので
はと最初はあきれたりもしましたが、一度親戚のかたがあなた
の愛用の鋏を使っているときに不機嫌な顔をなさったのを私は
見逃しませんでした。私は妙に嬉しくなって、いそいそと夕飯
の支度を始めました。
あなた 「よほどいいことがあったらしい。若い娘(むすめ)みたいに
楽しそうだ。」
そりゃぁそうです。それだけ嬉しかったんです。あかの他人を
一見してすっかり信用して下すったあなたを嬉しく思ったんで
す。そういうあなたに信用してもらえた自分がそりゃぁ嬉しか
ったんです。
あなたは食べるものに好き嫌いをいう人ではありませんでした
が、好物かどうかを見分けるのも私の楽しみになりました。好
きなものを食べるとそれを噛みしめながら窓から庭に目をやる
んです。おもしろいと思いました。ただあなたはもともと歯が
よわくて、そんな年でもないのに右の下の奥から四本ほどが入
れ歯でした。他の歯も手入れを怠るわけでもないのに体質から
かあまり丈夫ではないようでした。
あなた 「ほらね、強く押すと動くのがわかるほどだよ。」
なのにお弁当にいつもお漬物をいれるよう私にいいました。あ
る時不思議になって、お漬物は大丈夫なんですかと尋ねたら、
あなた 「飾りだよ。」
ちっとも格好のいいことではないのに玄関先で妙にキザな言い
方をなさるので、私は本当に可笑しくなって笑ってしまいまし
たら、あなたもなんだか楽しそうに笑っていました。

お嬢さんが短大を出て家に戻って来られるというので、私はお
暇をいただきました。あのときは本当に気が抜けたようでし
た。そうだそうだ、私は家政婦で、ここの家族ではないのだと
思い知らされたのでした。
あれから何軒かの家で短い間つとめましたが、またあなたから
私をという紹介所からの連絡を受けたときに私はどれほど嬉し
かったことでしょう。
あなた 「娘が結婚してね、一人でなんとかなるかとも思いましたがや
    っぱりあなたにいてもらった方がいいんだ。」
電話のむこうのあなたは二年前とちっとも変わらない声でおっ
しゃいました。
あと一時間もすれば見覚えのある駅について、あなたの家に行
けます。小さな荷物を抱えて電車に乗っている私はなんだかお
嫁にでも行くような気持ちでいるのです。