第149話(99/02/05 ON AIR)
『泳ぐ女』 作:み群 杏子

登場人物



男が一匹の魚を下ろしていく。
ウロコはていねいに削ぎ落とすこと。その
ままにしておくと、生臭さが残り、舌ざわり
も悪くなる。
包丁を持つ指は、昨日の夜、女のやわらか
な足の間で揺れていた、あの指だ。
まず、頭とはらわたを取る。身のやわらか
な魚は取扱いに気をつけること。腹の方を手
前にして、中骨にそって切っていく。肝心な
のは、新鮮な材料を選ぶことだ。
魚は、身も腸も削ぎ落とされて、うっそり
と哀しげな顔をしている。
女は、どこかで、そんな表情を見たことがあ
る。
包丁は、よく切れるものを使う。切れの悪
いのは、身をくずしてしまう。
そうだ、あれはシーツの上で、ぼんやりと
男を見上げていた、自分の顔だ。
尾のところに包丁を入れ、中骨にくっつい
ている身を切り離す。力を入れすぎないよう
に。あくまでも軽く。一匹の魚は二枚に別れ
る。
女のなかにも、いつも二人の女がいる。
笑っている女と泣いている女。
しゃべっている女と黙っている女。
ここにいる女とどこか別の場所にいる女。
二枚に下ろすか、三枚に下ろすか。
いろんなやり方がある。
拡げ方も、閉じ方も、扱い方も時によって変
わる。丁寧な時もあるし、あらっぽい時もあ
る。
骨の付いていない方は刺身にするといい。
さくさくと、切り取られていく。
女のつかのま。女の約束。女自身…
骨のついた方は、どうするか。焼くか、煮
るか…
あの頭は、どうするんだろう。
頭をくっつけて、活け作りにするか。いや、
それは本職にまかせればよい。あくまでも
遊びの料理だ。
男の指が遊んでいる。指笛、指ずもう、指 
人形、指きり、あやとり、耳そうじ。
ポーズする指、ささやく指、かむ指、泳ぐ指
、指の先には海がある。
魚は、頭のなくなった、その半分だけでも、
海へ帰りたいと思うのだろうか。
あ、ぴくぴくしてるぞ。まだ、生きてるの
かって?そんなわけはないだろう。
女の記憶の中にある海。その波うち際にし
か男はやってこない。
女は、突き上げる沖の胴間声を聞きたいと思
う。
そうだ、頭も一緒に、煮魚にするか。
水が揺れる。
ひたひたの水に、酒と醤油と、それに、味
醂と砂糖と…
ゆらりと身をひるがえして、女は、泳ぎ出
す。つめたい冬の海を、一匹の魚になって、
沖へ、沖へと。
END