第144話(99/01/01 ON AIR)
『林檎演奏家』 作:み群 杏子



さっき、旅する人がやってきた。
やあ。
髭もじゃの顔いっぱいに、人懐っこい笑顔
をうかべている。
寒いからね。ちょっと温まりにきたんだ。
私も笑って、椅子をすすめる。
どうぞ。もっと、ストーブのそばがいいん
じゃない?
いや、ここでいい。いい気持ちだ。
旅する人は、ストーブの火がチロチロと燃
えるのを、目を細めてみている。
こういうのが好きなんだ。火が見える旧式
のやつがさ。セントラルヒーテングっていう
のは、苦手なんだ。
ね、これを焼こうよ。
旅する人は、リュックサックを開く。たく
さんの林檎が、ころがりおちる。
ポケットからナイフを取り出すと、くるく
ると芯をくり抜いて、蜂蜜をたらす。アルミ
ホイルでくるんでストーブの上に置く。
「林檎で作るデザートなら、私も得意よ。
皮をむいてひたひたのワインでコトコト煮る
の。お砂糖も忘れずにね。もう一つは林檎を
スライスしてフライパンで焼くだけの簡単な
もの。シナモンシュガーをからめて、温かい
林檎ソテーの出来上がり。飲み物は、アップ
ルティかアプリッツァ。」
とても美味そうだ。
彼は、残りの林檎を部屋に並べる。
そーら、耳を澄ましてごらん。…聞こえ
るだろう…
…聞こえてくるわ…不思議な音楽のよ
うな音よ。それに、鳥の声や、虫の羽音。風
のつぶやきに雨のふる音。ひそやかな、者た
ちのささやき…
林檎の木からもがれる前に、森の中で、聞
いていた音だよ。
僕はこれで、演奏をするんだ。
広場に公園、街角や日曜日の協会の前で、
彼はおもむろに、リュックサックを開ける。
結婚式なんかがあればなおいいな。みんな
が喜んで聞いてくれる。
アコーディオンは風を音に変えるだろ。林
檎は、光を音に変えるんだ。光は、太陽でも
月でも、蛍光灯の明かりでもかまわない
そんな林檎を、食べちゃっていいの?
なーに、その分、残りの連中が頑張ってく
れるさ。
旅する人は、林檎演奏家だ。旅の間に、レ
パートリーが広がっていく。彼は、サーカス
団の団長のように、あるいは、ハメルーンの
笛吹きのように、林檎を引き連れて旅を続け
る。林檎はその中にいろんな音を蓄えていく
。森の中では知らなかった、人の声や車の音
も覚えていく。強い音、弱い音、沈んだ音、
傷ついた音…
こいつらもちょっと疲れてきたかな。でも
、まだまだ大丈夫だ。
ストーブの上で、ちりちりとアルミホイル
が音をたてている。林檎の香りが部屋じゅう
に広がる。おいしそうな匂い。甘い音楽のよ
うな香り。
ことしは、どんな年になるかな。
旅する人は、ストーブの上のカレンダーを
みている。
目を細めて、じっとみている。
END