第139話 (98/11/27 ON AIR) | ||
---|---|---|
『カバンの中の夜』 | 作:み群 杏子 |
|
女 | さみしい夜に、カバンを拾った。カバンの中 に街があった。靴だけが、空っぽの街を歩いて いた。 靴音が聞こえる…行く先は、角を曲がって 3件目の古いアパート。その2つ目のドアの前 で足音が止まる。ノックする。ドアが開く。 テーブルに二人分の食事が用意されている。 あまやかなシチューのにおい。旧式のストーブ の上では、お湯が沸いている。湯気で曇った窓 のガラス… |
---|---|
男 | ぼんやりとしていて、カバンを無くしてしま った。財布はポケットに入れてあったし、重要 なものが入っていたわけではない。何年もの間 、男と一緒に過ごした、すりきれた古いカバン だ。 街から街へ、男はそのカバンに、カーテンの 布見本を詰めて、歩き回った。10センチ四方 の布の切れ端を綴った、分厚いノートのような 見本帳は、男の商売の道具だった。 どこに忘れたのだろう。公園のベンチ、喫茶 店のテーブル、バスの中、駅のトイレ… |
女 | ラ・ラ・ラ・ラ・リ・ル・レ・ロ…ラの音 は、冬の音。星の光る夜の読書。リルケ、ロー トレアモン、ラフォルグ、ランボー…あたた かいラム酒に漬かったレーズンの夜。 |
男 | 男は、だが、警察に届けようとは、しなかっ た。いらなくなった見本帳の他には何も入って いない。男は、布の一枚一枚を思い浮かべてみ た。いろんな模様の生地があった。水玉、花模 様、ストライプ、チェック… 最近、売れたものは、何だったのだろう。男 は首を振る。覚えていない。もう、ずいぶん前 のことだ。 |
女 | 「ねえ、何か話して。」 女は、冬眠の前のリスのように、ベッドにも ぐり込む。 |
男 | むかしむかし… |
女 | どのくらい昔? |
男 | あまり昔過ぎて、わからないくらい昔さ。 |
女 | いいわ。 |
男 | 忘れられたような街があったんだ。とても小 さくて、4つに折り畳んでカバンの中に入って 仕舞えるほど小さい街さ。 |
女 | どんな女の子なの? |
男 | とても小さくて、4つに折り畳んでポケット に入ってしまうくらいの女の子だよ。 |
女 | 想像してみるわ。 |
男 | 女の子は待ってたんだ。誰かが、ドアをノッ クしてやってくるのを。もちろんそれは、家賃 を取り立てにくる口やかましい管理人や、カー テンのセールスマンじゃない。 |
女 | カーテンのセールスマンって、どんな人なの? |
男 | 関係ないよ。そんな奴には、ドアは開けない からね。 |
女 | でも、気になるわ。 |
男 | 生地の見本を持って、カーテンを売って歩い てるんだよ。 |
女 | おもしろそう。 |
男 | つまらない男だよ。 |
女 | わからないわよ。話してみなくちゃ。 |
男 | 君は、カーテンがほしいのかい? |
女 | もちろんほしいわ。ほら、あの窓にね… 女は、何も掛かっていない窓をみつめた。星 が光っていた。 ラ・ラ・ラ・ラ・リ・ル・レ・ロ。ラの音は ロマンスの音。ラムネ、ラッカセイ、ランプシ ェード、ライムを浮かべたリキュールの夜。 |
男 | 男の忘れたカバンは、夜の中に、ひっそりと 口を開いていた。カバンの中に、見知らぬ街が あった。迷路のような道があった。幾つもの窓 があった。その中で何人もの女の子が、眠れな い夜を過ごしていた。 窓の明かりにカーテンが映る。水玉も花模様 もストライプもチェックもあった。 男は目をとじた。 |
女 | ねえ、目をつぶると見えて、目を開けると消 えてしまうもの、なーんだ? |
END |