第134話 (98/10/23 ON AIR)
『夜を編む』 作:み群 杏子

登場人物



女は編み物をしている。
 このマフラーを仕上げてしまおう。これな
ら、ただ長く編めばいいだけだ。何も、考え
なくていい。子どもが歩くことを楽しむよう
に、女は、今、編むことを楽しんでいる。
 今日は、あまりいいことがなかった。昨日
切った髪が思うようにまとまらない。靴擦れ
の足が痛い。新しい靴が足に馴染まなくて、
歩くたびに後悔する。会社では、重要書類を
シュレッターに入れて叱られた。楽しみにし
ていた百食限定のお昼の定食にも、間に合わ
なかった。電話を間違えた。ドアに指を挟ん
だ。階段を踏み外した。
マンションの3回の小さな部屋。
その窓際に、女は、気に入りの椅子を置いて
いる。椅子に座って外を見る。今夜は星がき
れいだ。スタンドの明かりを一つだけにして、
針を動かす。編むのは小さい頃から好きだ
った。耳をすますと、いろんな音が聞こえる。
風の音、虫の声、車の音…
今日はついてない。男はうんざりとシート
に頭をつけた。ひどい客ばかりだった。メー
ターを倒したと思えば、すぐに止めてくれだ。
かと思えば道を間違って教える。酔っぱら
いはシートを汚すし、アベックは、ミラーの
向こうで濃厚なラブシーンをおっぱじめる。
無線で呼び出されて行ったのに、かたすかし
をくってしまった。おまけに、帰ろうと思っ
たら、このざまだ。あーあ、故障かあ。
 男は、急に、何もかもが億劫になる。キー
を外して、シートを倒す。フロントガラスの
向こうに星が出ている。星を見るのも久し振
りのような気がする。いつのまにか男はとろ
とろと眠ってしまう。
 2本の棒を無心に動かしていると、いやな
ことを忘れる。糸は暖かなオレンジ色が気に
入って去年のバーゲンで買ったものだ。辛か
ったこと、悲しかったこと、忘れたいこと、
勿論少しは楽しいこともある。部屋の明かり、
星のひかり、さっき入れたミルクティの香
り…みんな一緒に編み込んでいく。
 男はまどろみの中で夢を見ている。山奥の
温泉だ。露天風呂には、星が出ている。や、
先客がいるぞ。女かなと期待したら、山から
下りてきた猿だった。猿は気持ちよさそうに
湯につかっている。猿とふたりも、おつなも
のだ。男は気をよくして歌を歌い出す。いつ
もは音痴なのに、今日はなぜか上手く聞こえ
る。
 いつのまにか、女は、うきうきとした気分
になっている自分に気づく。そうだ、今度、
2、3日、休みを取って一人で温泉にでも行
ってこよう。山の温泉がいい。この間買った
枯れ葉色のジャケットに、このマフラーはよ
く似合うと思う。マフラーは、もう十分の長
さになってるはずだ。女は、編む指を止めて、
マフラーをたぐりよせる。膝から、残りの
毛糸玉が落ちる。毛糸玉はコロコロと部屋を
ころがっていく。
 さて、と。男は目を覚まし、やっと、重い
腰を上げる。試しにキーを入れてみる。エン
ジンがかかる。なんだ、直ってるじゃないか。
故障の原因はなんだったのだろう。今とな
っては、そんなことはどうでもいいような気
もする。アクセルを踏む。車は快調に走り出
す。
 毛糸玉は、女の部屋を抜け出して、夜の中
を転がっていく。どこまで行くのか、女にも
わからない。
 オレンジ色のマフラーをした女が、手を上
げて、車を止める。「どちらまで」
わからないけど、とりあえず、まっすぐ。
まっすぐですね。
 そう。まっすぐ行って。そして、角がくれ 
ば左に曲がるの。
男は、ハンドルを切る。角を左に。
次の角がくれば、また左に曲がる。
 また、次を左に。車は渦巻きのようにぐる
ぐるとまわりながら、やがて、ふわりとうき
あがっていく。星空まで、あと、少しだ。
END