第124話 (98/08/14 ON AIR)
『セ・ラ・ヴィ』 作:み群 杏子




向かいのアパートの、からっぽだった二階
の部屋に、昨日、あの人が引っ越してきた。
 朝が始まる。蝉の声。シュアシュアシュア
シュア…(元気に蝉の声を真似している)お
はよー! 窓から、あの人が顔を出す。あん
がい早起き。あ、やだ、パンツいっちょ。
あっつー。暑くって、寝てらんないよ。朝
っぱらからこんなじゃ、どうすんだよ。無理
しても、クーラー付のワンルームにすりゃよ
かったかなあ。でも、ぜいたく言ってらんな
いんだよな。貯金ゼロだよ。早いとこ、仕事
みつけなきゃ、本気でやばいぜ。
つけなきゃ、本気でやばいぜ。
女 見て見て、夏休みの子供たちがラジオ体操
から帰ってきた。おかえりなさーい。おなか
、ぺこぺこだね。あ、お隣のおとうさんが、
のんびり起きてきたよ。お盆で、会社がお休
みなんだ。いーな、いーな。ゆっくりしてく
ださいねー。
俺、なんでこんなにはやくに目が覚めちゃ
ったんだろ。ひっこしで疲れてるはずなのに
なあ。やっぱ、暑さのせいだ。(セリフのバ
ックで電話の音がしている)チ、なんだよ、
朝っぱらから。あれ、電話、どこいった?…
おい、止まれって。うるさいって。
電話の音って、私、好き。他に好きなのは
ねえ、朝のにおい。おみそしるとか、トース
トとか、ミルクとかフルーツのおいしそうな
におい。それから音楽。おひさま。おしゃべり。
ごめん、ごめん、いや、電話、見つかんな
くてさ。住みごこち?そんな、まだ、わかん
ないよ。昨日、越してきたばっかだぜ。
… だからさ、そのことはもう気にしてない
って。おまえにはおまえの事情ってもんがあ
んだからさ。誰だってそう思うよ。当たり前
だよそんなこと。だから、気にすることない
って。彼女にも気にするなって言っといてく
れよ。え、仕事?いや、まだだけど…暑いか
らさ、ちょうどいいんだよ。貯金も残ってる
し、ゆっくり休んで、そのうちにいいとこ、
見つけるって。ああ、じゃあな。(と、電話
を切って、溜め息)まあな、あいつと、あい
つの彼女と、俺と、3人で、あの狭い部屋に
いっしょってわけにはなあ。あーあ、どっか
に金、落ちてないかなあ。
あ、あの人がこっちを見ている。ねえ、電
話は終わったの?だったら、お部屋、片付け
なくちゃ。段ボールの箱が昨日のままよ。
向かいは美容院か。しかし、しけた美容院
だな。だいたい、こんな路地裏に、客なんか
来るのか。 
 そういや、子供の頃、こんな路地で、よく
遊んだな。模型の飛行機を飛ばしたら、向か
いの屋根の上に乗っかっちゃって。
あたしはここよ。ほら、もっと上を見て。
あれ、向かいン家、物干しに、鳥籠が出し
てあるぞ。カナリヤかな。いや、インコだ。
なんか、俺の方、見てないか、あいつ。
あたしはここよ。ほら、もっと上を見て。
あれ、向かいン家、物干しに、鳥籠が出し
てあるぞ。カナリヤかな。いや、インコだ。
なんか、俺の方、見てないか、あいつ。
やっと、気がついてくれた。
そうか、わかったぞ。あいつの声で目が覚めたんだ。
 笑ってる。いい笑顔。
おまえ、一生、鳥籠ン中で、いいのか。
何? 何言ってるの。
羽があるのに、飛べないんだぞ
話かけてる。私に。
なんか、たのしそうだな。
私、うれしい。あの人が来てくれて。
なんとかなるか。
そうよ。
うん?今何か言った?
そうよって、言ったの。
うーん(と、伸びをして)いい天気だ。
END