第115話(98/06/12 ON AIR) | ||
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『彼は懐かしい夢を見た。』 | 作:冬乃 モミジ |
男 | 彼は夢を見た。 懐かしい夢だ。彼が生涯で一番愛した彼女が彼に向かって 笑いかけている夢だ。 彼女は花嫁衣装を着ている。その花嫁衣装は彼女以上に似 合う人はいないと思える程彼女によく似合っている。 嬉しいような戸惑うような気持ちでいると彼女はこう言うのだ。 |
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(彼女の声) | 「これからずっと一緒にいるのね」 彼はやはり嬉しいような戸惑うような気持ちになる。 ふと彼女が消えてしまったのじゃないかと不安になって見 回すと彼女はちゃんとそこに居て、手の甲の角度を変えて は薬指の銀のリングを眩しそうに眺めている。 彼の左手にも同じリングが光っている。 |
(彼女の声) | 「これとても気にいってるの」 彼女は視線をこちらに向けてそう言う。 彼は少し安心して自分の指にはまったリングを触ってみる。 彼女のことを抱きしめてみたくなって彼はそっと手を差し 出す。まっすぐこちらを見ている彼女の方に指が触れる。 彼女がそこに居ると実感する。肩から背中にすうっと手を まわしてこちらへ引き寄せると柔らかい体が彼の腕の中に ある。これは愛しい人を抱きしめている感覚だ。自分の心 臓の音が聞こえるようだ。初めて彼女を今抱きしめたよう でもあるし、ずうっと昔からこうしているような気もする。 |
(彼女の声) | 「こうしてるとすごく安心するわ」 と彼女の方が言う。 彼は今まで自分が疲れているとは思わなかったが、彼女が そばに居ることで疲れがほどけていくと感じている。 「僕らは結婚したんだねぇ」 「一緒に暮らしていくんだねぇ」 彼女は目を閉じて彼の腕の中にいる。 彼女は買い物に出かける。花嫁衣装を着て自転車を走らせ る。とてもきれいな光景だ。 花嫁衣装を着た彼女が台所に立っている。野菜を洗う音、 それを切る音。鍋から湯気が立ち上がる。とても落ち着く 風景だ。 花嫁衣装の彼女が椅子に腰かけて新聞を読んでいる。ゆっ くりめくられていく頁の音。郵便受けから手紙を取り出す 彼女。あたりまえに彼のいる方へ歩いてくる彼女。洗濯機 をまわす彼女。鳴っている電話に返事をしながら出る彼女。 鼻歌を歌う彼女。とても幸せな情景だ。 僕らは沢山映画を観に行こう。 釣りにも行こう。花嫁衣装の似合う彼女に餌の付け方を教 えてあげよう。 たまには喧嘩もしよう。 彼女に料理をつくってあげよう。 僕らには二人でやりたいことが沢山ある。いくらでもある。 いくらでもあるそんな事について沢山の話をしよう。 話す必要もない時は、ぼんやり夕涼みをしよう。 彼はそんなことを考えながら自分の左手に夫婦の証を確か めてみる。 |
女 | 「何の夢を見ているのかしらね」 彼女は彼の傍らに座っている。静かに寝息をたてる彼と、 いたって穏やかな顔でそこに座っている彼女の姿は時間の 中に溶けていってしまいそうにも見える。彼女は時計を見 上げて、そろそろ食事の用意をしなければと思う。エプロ ンの紐がゆるんでいないか手をまわして、後手(うしろで) で解(ほど)いてもう一度リボン結びする。彼女の皺だら けの左手にはあの銀色のリングが見える。彼の薬指にも同 じものが光る。眠りながら彼がそのリングを触っている。 |
男 | 彼は懐かしい夢を見ているのだ。 |