第114(98/06/05 ON AIR)
『みえないたんてい』 作:み群 杏子

登場人物
男・女
場所
市街が見下ろせる公園
時間
午後8時頃




川村さんへ
 夜。君に会った帰り。JR三宮。わりとす
いてる。
ひとなつっこいのに、ケンボー症なヤツと君
が言ってたことについて。
僕は女にしろ男にしろなつく傾向が、昔から
ある。でも、それに対して忘れっぽく出来て
いるのだ。去るもの日々に疎くって言うけれ
ど、去らないものまで、忘れていく。時々思
い出してもそれっきり、あえなくなっても、
それっきり。
家に帰ると、君からの手紙が来ていた。封を
開けると、まっかっかのピエロの絵。僕は思
います。手紙を出して、それが相手に届かな
いうちに、差し出し人と、まだ受け取ってな
い受取人とが会うっていうのは、やっぱりさ、
なんだろ、よくないよ。
原田君へ
 今、ペピートで、この手紙を書いています。
どうせ忘れてると思うけど、あなたが教えて
くれたお店です。目の前に座って、白玉みつ
まめを食べているのは、みえないあなた。も
うひとりのあなたは、バスを待っているの。
そして私は、みえないたんていになって、あ
なたのあとをつけて行きます。ほら、バスが
来た。あなたはそれに乗ります。そして、席
に座ったとたん、眠ってしまう。10分ほど
眠って、はっと目をさまし、慌ててあたりを
見回します。まだ、大丈夫。そして、終点の
一つ前の駅で、あなたは降りるの。百合が丘
2丁目。やっぱり、ヨーコの家へ行くんだ。
君は誤解している。確かに、君が言うよう
に僕はヨーコの誕生日に指輪を買った。でも、
渡そうと思って買ったんじゃない。僕はもう、
彼女にそれをあげられるような所にはいない
んだ。ただ、昔、買ってあげる約束をしてい
て、そのことを思い出して、買ってみただけ
のことなんだ。
ひとは、暮らしの枠から、時々逃げ出した
くなるんだって、いつか、言ってましたね。
逃げ出して、どこにいくんだろう。
私の場合、それは、レーゾン・デートルとい
うはらっぱです。昼間よりも夜の景色が似合
う所なのです。そこでは、魔女や魔法遣いが
秘密の集会を開いていたり、ブリキの兵隊と、
アンテックドールがしのびあっていたりする
のです。とてもいかがわしくて、美しくって、
哀しい所なの。そのはらっぱで、なぜか原田
君が逃げるうさぎを追い掛けているのです。
たとえば僕が、うさぎを追い掛けていたと
する。
僕はうさぎを、どこでもいい、とにかく穴の
中に追い込む。もちろんうさぎはちっちゃな
穴を選ぶ。間違っても大きな穴へは入らない。
そしたら、もう捕まえたも同然だ。その穴の
入口で、僕はこう言うんだ。
うさぎ!って。
そして次に うさぎ! って。 
そうして次に うさぎ! って。
そうして次に うさぎ! って。
そうして次に うさぎ! って。そうして
次に うさぎ! って。
(だんだん呼ぶたびに声小さくなる。)
すると、うさぎは、テキは遠くに行っちゃっ
たなと思って、穴から飛び出してくるんだ。
そこをムンズと捕まえる。そして言うんだ、
「川村さん、見つけた!」って。
 … だけど、こんな手紙を書いたって、僕
はきっとまた忘れてしまうだろう。そして、
君に会って、また、憎まれ口を聞いて、誤解
されて、また、ケンボー症なヤツと言われて、
家に帰って、また、君に手紙を書いて…
追伸。みえないたんていは間違っていまし
た。百合が丘2丁目で降りたのは、原田君で
はありませんでした。彼はそのままバスに乗
り続け、もとの場所に戻ってくるのです。そ
して、疲れたなあとふと振り向くと、ベビー
トを見つけます。そこでやっと、「そうだ、
僕はここで、川村さんと白玉みつまめを食べ
ようって、約束していたんだ」って、思い出
すんです。
原田君って、あいかわらず、ケンボー症な
ヤツです。
END