第109(98/05/01 ON AIR) | ||
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『都忘れ』 | 作:み群 杏子 |
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男 | かあさんが笑った。長いねむりの中で、時々、少女のような 笑顔を見せる。 僕が大人になるのと反対に、かあさんは、昔へと帰っていく。 今日は朝から雨が降っている。病院の窓の下に、ひっそりと咲 いた都忘れ。今年も花の季節がやってきた。 |
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女 | 遊園地は雨だった。私が乗った回転木馬を、あなたは恥ずか しそうに、柵の外で見ていた。私が選んだのは白い馬。背中に は金色の握り棒が、垂直に立っていた。音楽が鳴り、木馬が回 り始める。景色が後ろに流れ、私の前からあなたが消える。一 巡りするごとに訪れる短い出会いと別れを、私たちは楽しんでいた。 レストハウスのジュークボックスから流れていたのは、あれは 何の曲だったのかしら。 |
男 | かあさんがとおさんと出会ったのは、今の僕と同じ歳だった んだね。 5月の風は、むせかえる緑の匂いを連れてやってくる。看護婦 さんが、枕元に都忘れの花を飾ってくれた。 |
女 | たまごを茹でて、お肉やお魚を焼いた。ほうれんそうのおひ たしやトマトのサラダも作った。果物もお菓子も、大きなお弁 当箱一杯に詰め込んで、あなたの部屋をたずねた。 古いアパートの色あせたカーテン。ウイスキーの赤いラベル。 小さな冷蔵庫の中は、いつも、みごとに空っぽだった。壁に張 ったカレンダーには、ロートレックの自画像が、描かれていた。 |
男 | 手を握ると、そっと握りかえしてくる。かあさん、僕のこと わかるの?それとも、誰かと間違えているの。 |
女 | ロートレックって、小さい頃、“可愛い宝石”って、呼ばれ ていたんですって。でも、14歳で、下半身の成長が止まって、 30代で、アルコール中毒で死んでしまうの。オトギバナシの ような人生。見て、あの絵には、フランス的頽廃が漂っている。 |
男 | 夕暮れ時。どこからか音楽が聞こえる。オルゴールのような 微かな音。音は、少しずつ緩慢になり、やがて、たよりなく、 風の中に吸い込まれてゆく。 |
女 | 鳴らなくなったジュークボックス。動かない回転木馬。鍵の かかったレストハウス。閉ざされた遊園地。止まった時間。こ こから出られない。永遠に、時の中に、閉じこめられる。 |
男 | 夢の中には、日常からはみ出した時間があって、今、かあさ んはそこで生きている。自分が眠り続けていることも、とおさ んが亡くなった事も知らずに。 雨あがり、病院の帰り、バスを待つ。バスは過去からやって来 て、未来へと走っていく。バスが止まる。僕だけが乗る。 かあさんの恋、てのひらのぬくもり、編んだセーター、作った 料理、一緒に見た夕焼け、後ろ姿、歩いた道、窓に映る笑顔… 遠ざかっていく、いくつもの言葉、いくつもの思い出… |
女 | あれは、5月の日曜日。ピクニックみたいに草の上に座って、 いっしょにお茶を飲んだことがあったわね。まだ、二人が結婚 する前のこと。いちめんに都忘れの花が咲いていて、その向こ うに、なだらかな丘が続いていた。私、あの時、あなたと見た その景色を、ずっと、覚えていようって、思ったのよ。 |
END |
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*かあさんの声は、若いままでお願いします。 |