第103話 (98/03/20 ON AIR) | ||
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『古本屋』 | 作:冬乃 モミジ |
男 |
その古本屋へ貴方がやって来たのは、私が働きはじめて三日目 のことでした。空色の、カーデガンを着ていましたよ。「いら っしゃい」と言う私の声に、ちらと私を見、表情を変えるでも なく、本を探しはじめました。奥にいた主人が、「常連だ」と 教えてくれました。 |
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男 |
学生時代のアルバイトに古本屋を選んだのは、それが性にあっ ていたからです。性にあった仕事を楽々とこなし、あとは、気 に入った本をのんびりと読んでいればいい。まったく私にぴっ たりの仕事でした。主人は、眼鏡をかけ白髪まじりの、何とい うか如何にも古本屋といった風情の人でした。…貴方も覚えて いますか。 |
男 |
貴方は三日か四日に一度はやって来ました。すっきりした洋服 をきちんと着、真直ぐな髪を耳にかけ、本の並ぶ棚をゆっくり 一通り見て歩くのです。どんな本を買う時も、表情は同じでし たね。それが気に入れば口の端でわずかに笑顔をつくり棚から 引き出す。引き出してパラパラとめくり、私のところへ持って くる。…引き出された本は再び棚へ返されることはまずありま せんでした。貴方は…、いつもその題名や装丁で本を選んでい たのですか。私には到底、貴方が一体どういう人なのか、わか ることは出来ませんでした。 |
男 |
実は一度だけ、別の場所で貴方を見かけたことがあったのです よ。冬のとても寒い日で、私は駅の待合室で、暖をとっていた のです。私の前には先程から落ち着かず、立ったり座ったりを 繰り返している女の人がいましたが、私が待っていたのとは逆 の列車が間もなく到着するという時に、その女性は通りに誰か を見つけ、大きな声をあげました。 (女性の声)「あ、来た来た!早く早く!」 |
男 |
そこに息をきらせて走りこんで来たのが、貴方でした。女友達 に荷物を手渡し、「ああ、間にあってよかった」と、白い息を 吐き、頬を赤くして、笑っているのが、貴方でした。 私はただただ、口を開(あ)いて、貴方の一挙一動を見ていま したっけ。 |
男 |
翌日、貴方はいつものようにやってきました…違っていたのは、 私の方でした。一瞬にして背を伸ばし、貴方をみました。ふと、 視線を感じ、奥の部屋に目をやりましたら、主人がじっとこち らを見て、それから、おもしろそうに「ふん」と言いましたよ。 |
男 | 常連、という言葉には何の約束もないのだということを私は考 えていませんでした。実に間抜けでした。貴方はある日からパ タリと来なくなりました。十日も経ってソワソワとしはじめた 私に主人がポツリと「引っ越したってよ」といいました。それ が貴方のことだとはすぐにわかりましたが、私にはどうするこ とも出来ません、すっかり諦めてしまうよりほかなかったので す。 |
男 |
もう数年前のことです。ですから先日偶然貴方を見かけた時に、 自分自身があれほど動揺したことに驚きました。そして貴方に 声をかける勇気が私の中にあった事も驚きでした。貴方にああ して声をかけるに至ったあれこれをお伝えしたく、この手紙を 書いている次第です。 |
娘 |
その手紙は、随分と難しそうな本に挟まれていた。贅沢を嫌っ た父の荷物は簡単に片付いてしまい、沢山の本だけが父という 人を語っているようで手にとってはパラパラと風を通している 時に見つけたのだ。結局その女性には届けられなかった手紙を、 父は時々思い出すように読み返していたんだろうか?母と知り 合うずっと前のこんな父のことを母は知っていたんだろうか? もの静かで本ばかり読んでいた父を私は嫌いではなかったけれ ど、きちんと並べられた古い本のような父の印象に、ほんのり と色がさしたような気がしたのでした。 |