第99話 (98/02/20 ON AIR) | ||
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『サーカスの夜』 | 作:み群 杏子 |
女 | 透明な夜の空気をふるわせて、鈴の音が聞 こえる。かすかに、リン、と1つ。それから、 リン、リン、リンと、3つ。 寝つかれないまま、ベッドの中で本を読んで いた女は、耳をすます。「何だろう?」 スタンドの明かりを消して、ぴったりと窓に顔を寄せる。 夜の闇のなかに、細い綱が渡っていた。 女の住むマンションの5階の部屋へ、ぴんと 張られたその綱を、バランスを取りながら、 一人の青年が渡ってくる。 頭にはカラフルなニット帽。真っ赤なサロペ ットパンツに黄色いセーター。暗い夜の中で、 鮮やかな色彩が踊っている。 |
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男 | サーカスだよ。サーカス団がやってきたよ。 さあ、どの子も目を覚ますんだ。急がないと 見逃しちゃうよ。空中ブランコに綱渡り、ア クロバットにライオンの火の輪くぐりだ。自 転車ショーに、ドッグレース。可愛い子猫の ラインダンスもあるよ。 |
女 | 声と共に、町中の建物から建物へ、窓から 窓へ、てぐすのような綱が張り巡らされていく。 |
男 | 先着100名様に風船の大サービスだ。早 くこないと無くなっちゃうぞ。 |
女 | 青年の手には、色とりどりの風船がにぎら れている。あちらこちらの窓が開き、子供た ちが一斉に顔を出す。 |
男 | はい、おじょうちゃんは5列目の右から2番目だ。 |
女 | おじょうちゃんと呼ばれたのは、たばこ屋 のあや子さんだ。あや子さんは、独身で30 を過ぎている。 |
男 | 坊やは2列目の一番はしだ。いい席だぞ。 |
女 | 坊やと言われて、嬉しそうに笑っているの は、深草寺の住職さんだ。窓の子供たちは、 よくみると、みんな大人だ。 八百屋のおにいさんも、クリーニング店のお ばさんも、喫茶店のマスターもいる。 青年はみんなにやさしく声をかけながら、一 つ一つ、風船を配っていく。 「次は私の番」 |
男 | 男は、小さなアパートの一室で、夢を見て いた。昔、自分もサーカスの舞台に立ってい たことがあった。空中に張られた綱の上を、 きらびやかな衣装を着て、軽やかな足取りで 渡っていった。綱から落ちて足の骨を折ると いう事故が、男の一生を変えるあの時まで。 もう、空中で綱を渡ることは出来ない。 |
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女 | 突然、窓の景色が乱れる。綱渡りの青年は、 あっという間にバランスを崩し、女の目の前 で、夜の中に消える。青年の手を離れた風船 が、空に吸い込まれていく。 オレンジ、ストロベリー、レモンイエロー、 ソーダーブルー、ペパーミントグリーン… あれは、子供の頃好きだった、ジェリービー ンズの色だ。女は、ほんのりと甘かったお菓 子のことを思い出す。 「もう少しで、私のものだったのに」 女の意識の中には、もう、綱渡りの青年はい ない。女は、貰えなかった風船のことだけを 考えていた。 |
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男 | 今、男は地上で、あぶなっかしく、綱を渡 っている。朝はやくから、夜遅くまで、仕事 はきつい。世の中は、綱渡りのようなものだ。 渡る間に、子供のころからの夢が、一つ一つ こぼれていく。それでもめげないで、綱を渡 っていく。 ふと目を覚まし、ごろんと寝返りを打ったふ とんの中で、小さなかけらが、からだにあた る。拾い上げると、ジェリービーンズだ。 どうして、こんなものが? 不思議に思う間 もなく、男はまた、眠りに落ちていく。 |
女 | 今夜は星がきれいだ。 「明日も晴れるかな」 女は、ぷるっと、震えながら窓を閉める。 どの窓も、静かに眠っている。 |
END |