第82話 (97/10/24 ON AIR)
『クロコダイル・ダンディ』 作:み群 杏子



あいつと暮らした日々が、長かったのか、短
かったのか、今ではもうよくわからない。
あいつは、古いアパートの小さなバスルームが、
なぜか気に入っていたようで、

わからないかなあ。僕が気に入ってたのは、
おふろ場なんかじゃなくて、かなちゃんなんだよ。

そんなこと言ったって、水なしには生きてい
けないくせにさ。
私がバスルームを掃除している間、あいつは
キッチンの流し場いっぱいに水を張って、
なさけない顔で待っている。

かなちゃん、まだぁ?

初めてあいつに会った時には、さすがの私も驚いた。
だって、さあお風呂に入ろうって、素っ裸になって、
バスルームのドアを開けたとたん、

やあ!

なんて、バスタブの中から、ワニなんかに挨
拶されたら、誰だってびっくりする。
そう、あいつは、ワニなんだ。
どうやら、昼間、図書館から借りてきたアフ
リカの写真集の中から、抜け出してきたらし
いのだけど、

だって、かなちゃん、僕のこと、すっごく、
気に入ってくれてたみたいなんだもん。

でも、私が気に入ってたのは、夕焼けに染まる
ナイル川の写真だ。だから、家でゆっくりながめ
ようと、重いのをがまんして借りてきたのに。

じゃ、僕のことは?

あのナイル川に、ワニなんか、浮かんでいたっけ。

そりゃ、ないよ。

ワニが、あんまりがっかりするので、いじら
しくなって、思わずやさしい言葉なんかかけ
てしまったのが、まちがいのもとだった。
あいつはそれからずっと、私の部屋にいる。
ワニさんと呼ぶのも無粋な感じだし、映画の
タイトルをもじって、ダンディと名づけてあげた。

恋とは、理不尽なものなのさ。

時々、わけしり顔に、ダンディが言う。
私の したことが、大きなまちがいなら、ダンディ
のは、大きなかんちがいと言うものだ。
でも、うちあけると、最近、私は、家に帰る
のがちょっぴり楽しい。ドアを開けると、
ずんどうのウエストにエプロンを付けたダンディが、

おかえり、かなちゃん。

と、出迎えてくれるのだ。洗濯物は、ちゃんと
取り込んであるし、テーブルの上には、あたたかい
スープとステーキが用意されている。
ワニのくせに、一宿一飯の恩義を心得ているのだ

そんな日々が一ヵ月続いた。気がついたら、
貸出の期間が過ぎてしまっている。
あのさ、もう、期限なんだよね。

なんの?

写真集、返さなくちゃ。

そう…

どうする?

どうするって…

ダンディは、迷って、やっぱり本と一緒に、
図書館に帰ることに決めたようだった。
最後の夜は、感動的だった。
ダンディが、初めて、私のベッドにやってきたのだ。
私は、背中や尾っぽのとげとげに触らないように、
毛布ごしに、抱いてあげた。

おやすみ、かなちゃん。

そして、翌朝、ダンディは、消えていた。

さみしくなると、図書館へ行って、私は、あの
写真集を開く。すると、夕日を浴びたナイルの
岸辺から、なつかしい声が聞こえてくるのだ。

元気かい、かなちゃん。

END