第79話(97/10/03 ON AIR)
『夜間飛行』 作:松田 正隆

登場人物
男(平野)
女(村井)




  ―ある高層ビルにあるオフィス。夜。
  男と女、二人の会社員が残業している。他には
  誰もいない。パソコンのキーをたたく音だけが
  広い室内に響いている。

ね、平野君。

はい。

こないだ渡した商品企画書、どうしたっけ。

村井さんに返しましたよ。部長にまた、見てもら
うからって。ハンコ、まだだったでしょう。

そう。…そうよね。おかしいなあ…どこやっちゃった
かな…。(と、自分のデスクの上を探している)
  ―デスクの上から、書類の山が崩れ、バラバラと床に
  落ちる。

ああ、ああ。もう…。(と、拾う)

(それを見て)…ひといき、いれましょうか?

え?うん…。(と、尚も探している)…平野君、
まだ帰らないの?

ええ、ちょっとこれ、やってからでないと…。

ガンバルなぁ。

家にまで仕事、持ちかえるの、あんまり好きじゃ
ないから…。

へぇ。奥さんにしかられちゃう?

ええ、まあ…。(と、苦笑)…コーヒーでいいですか?
(と、立つ)

うん。…あ、これこれ、あったあった。

―男は給湯室へ。そこから、
砂糖とミルク、入れます?

ああ、私、いらない。 ―女は、窓へ行き、開ける。
はるか下界からの雑踏の音が、わあーんとこだまして来る。
「ウーン」と女、伸びをする。男、もどって来て、女のデスクに、

はい。(と、コーヒーを置く)

ありがとう。…みんな、もう帰っちゃったの?

ええ、ずいぶん前に。

あ、そう、知らなかった。(と、コーヒーを飲む)

村井さん、最近ちょっと仕事やりすぎなんじゃないですか?

え?…そうかな…。

毎晩、残業してるそうじゃないですか。

そんなことないわよ。

うちの課の若い連中が言ってましたよ。

ええ?…あ、そう。どうせ、仕事ぐらいしかやることないん
だろうって、悪口言ってたんでしょう。

いや、そこまでは言ってなかったと思うけど…。

ま、確かにそうなんだけどね。他にすることないから…。
だって、誰も、さそってくれないんだもん。

誰か、いい人いるんじゃないんですか?

そんなのいるわけないじゃない。

ホントですか?

じゃあ、平野君、今度さそってよ。喜んで、どこでもついて
行っちゃうから。

ええ?

ウソウソ、そんなことできないわよね。平野君、愛妻家
だっていうウワサだから。

そんなことないですよ。誰が、そんなこといってるんですか。

まあ、いろいろと、うちの課の若い連中が…。

まいったな。 ―女、ほほえましく笑っている。
雑踏の音。

あら、ちょっと、見てよ。…今夜は満月じゃない?

あ、本当だ…。都会の月も、けっこう明るいんですねえ。

だって、43階だもん、ちょっとは月に近いわけだから。

ああ、そっか…。

いやいや、…まんまるだねぇホントに…。

ええ…。 ―間。…雑踏の音。都市の音。

…いないんですよ、今夜は…うちのカミさん。

え?どうしたの?

実家(くに)にかえってるんですよ。九州の天草なんですけどね。

へえ。

子供が生まれるもんだから。

あ、そう。そりゃ、おめでとう。よかったじゃない。

ええ。今日が予定日なんです。

ええ?じゃあ、帰った方がいいんじゃないの?

はあ。

何やってんのよ。家に連絡とかあるんでしょう。

ええ、たぶん。

帰んなさいよ。

…そうなんですけどね。何となくそんな気になれなくて…
いや、どっかで、気にはなってるんだけど。

そうでしょう。

だからといって、アパートの電話の前で、ひとりじっとして
待ってるのも、ナンだなと思って、何だかバカみたいでしょう。

でも、きっと奥さん、悲しむわよ。…すぐにでもダンナさんの
声、聞きたいんじゃないの?こういうときって。
…私にはわかんないけど…。

まあ…こうしてる場合でもないんだけど。

そうよ、仕事なんていいから帰んなさいよ。

はあ…。

…ったく、呑気なんだから…。

…田んぼがあって、そのあぜ道を登りつめたら、小さな白い教会が
あって、そっからは遠く港を見ることができるんです。波のおだや
かな漁港なんだけど…。

…うん?

妻の実家ですよ。…初めてそこ行ったときは、ホントいいところだと
思いましたよ。

そう…。 ―二人、外を見ている。

奥さんにもみえてるかなあ…満月…。ああ…そんなわけないか…。
そんな余裕、ないわよね。 ―二人、外を見ている。

…。じゃ、オレ、帰ります。

え?あ、そう。…うん、それがいいよ。

(デスクの書類などをカバンに入れつつ)あと、おねがいしますね。

はいはい。

それじゃ、失礼します。

うん。…あ、平野君。(と、呼び止める)

はい。

元気な、赤ちゃん、生まれるといいね。

ええ。(ニッコリして)ありがとうございます。(と、ドアから去る)
 ―雑踏の音、かすかに。
 遠くをジェット旅客機がゆく。
 ゴーッと月の夜空をむなしく通り過ぎてゆく。
 ―女、軽くタメイキをついて、

…週末はちょっと、月にでも行ってくるかな。
 ―と、左手で右肩をもんで、「ウーン」と首をまわす。

さあてと、あとひといき。
 ―デスクに向う、女。
 ―広いオフィスにパソコンのキーの音が響いている。
 ―外では、満月がそのビルを見おろしている。