第77話(97/09/19 ON AIR)
『夜光虫』 作:み群杏子




さっき、あの人がやってきた。

やあ。

あの人は、くつろいだ様子で私の前に座った。

元気だった?

うん。ひさしぶりじゃない。

そうかな。

どうしてたの?

えっちゃんは?

この間、海に行ったわ。

誰と行ったの?

会社の人たちよ。

彼も一緒だった?

彼って?

ほら、前にえっちゃんが言ってた、同じ課の。

吉岡さん?

そう、吉岡さん。

うん、吉岡さんもよ。

あの人がそうかな?夜、二人で海岸、散歩してたよね。

なんだ、知ってるんじゃない。

うん、僕も、すぐそばにいたんだ。

… 夜光虫をね、見てたの。

うん。

空の星みたいに、海が光って、とてもきれいだった。
でも、捕まえることなんて、出来ないの。光のかけらを
捕まえたいと思っても、だめなのよ。握ったてのひらを
開くと、そこには、もう、なにもないの。

うん。

… 声かけてくれればよかったのに。

声、かけてくれればよかったのよ。遠慮なんかしないで。
マー君の時みたいに。

まさるのやつ、笑っちゃうよな。フランス映画なんてさ。
映画は、絶対にアメリカだって言ってたくせに。

チケット貰ったって、言ってたわよ。

貰ったんじゃなくって、買ったんだよ、わざわざ。
なのにあいつ、映画見ないでえっちゃんの顔ばっかり。

マー君、もう大学生になったのよ。あなたに似てきたわ。
やっぱり兄弟ね。
あなたったら、私とマー君の間に割り込んできて、いたずら
ばっかり。

ちょっと、からかってやったんだよ。アニキの恋人に手を
出すなんてさ、子供のくせに、なまいきじゃないか。
… 遠慮なんかしないさ。ちゃんと、声をかけたよ。海でも。

… 私、気がつかなかった。

… 

… どうして? あなたがそばにいれば、私、いつだって
気がついていたのに。

えっちゃんのせいじゃないさ。
だって7年だよ、僕が死んで。
だからね、もういいんだよ、えっちゃん。時々、こうやって、
いっしょに話ができればね。
           *

あの人が帰っていったあと、電話がなった。吉岡さんからだった。
吉岡さんの声は、あの人の声とぜんぜん似ていない。そのことが、
私を少し、切なくさせた。
電気を消した部屋のなかに、あの日の光る海が、滲んで広がっていた。

                       END