第76話(97/09/12 ON AIR)
『夏の名残り』 作:洞口 ゆずる

登場人物
美晴 20代前半
DIYショップのオヤジ



ナレーション
(女)

溶けてなくなった飴玉を懐かしむ子供の
ように、ベッドの上での美晴は夢名残り
を捜し求めてはみたものの、一点の曇り
もない秋空のように、脳裏に浮かぶもの
は何もなかった。
そして、高木と別れてすでに一週間にな
ることに少し驚いた。いや、驚いたのは、
それが美晴にとって、そういえばそんな
ことがあったねと思い出す過去のことに
なっていたからだ。
 ベッドから起きると、美晴は歯ブラシ
をくわえて、風にあたるつもりで殺風景
なベランダを覗いた。油ゼミが一匹、仰
向けになって死んでいた。

  (音楽)

オヤジ

ベランダ用のウッドデッキはないね。た
いがいが作りはるからね。あれやったら、
この簀の子を代用するとか。
  と、風呂場用の簀の子を示して

美晴

お風呂場みたいじゃないですか。

オヤジ

みたいやのうて、風呂場用や、これは。

美晴

そういうのじゃなくて、もうちょっとが
っしりした感じのが欲しいんです。

オヤジ

それやったら自分で作ってもらわなしゃ
あないね。お客さんとこ、どれぐらいの
広さやの?

美晴

すごい狭いんです。猫のひたいってとこ
です。     

オヤジ

で奥行きと幅は何センチぐらい。

美晴

これくらいです。

オヤジ

測ってきてないの?

美晴

でもメジャーとか、持ってないんです。

オヤジ

しゃあないなぁ(とため息)
  電動のこぎりが回る音や釘を金槌で叩く音。
  重なって‥‥

オヤジ

この材、アメリカンレッドシダー言うん
やけど、安いから、これでいきはったら
よろし。ワンカット十円でサイズ通り切
っといたげるから。後は色塗って、釘打
ちはったらしまいや。色はどんなんがよ
ろしいん?
  ウッドデッキを作る音に、美晴の鼻歌まじり 
  に刷毛を動かす雰囲気がオーバーラップして

美晴

ふうーっ、一丁あがり!ちょろいもんや
ね。色が乾くまで、冷たいもんでも呑も
う。
  冷蔵庫を開け、麦茶を呑む。

美晴

うん、初めてにしては上出来、上出来。

ナレ女

(静かな音楽)
マホガニーと名付けられた、赤褐色に塗
りあげられたウッドデッキは、殺風景な
ベランダを暖かな空間にかえていた。ふ
と、美晴は‥‥私は傷ついてなんかいな
いと口に出して言ってみた。ベランダの
雰囲気は変わらなかった。‥‥でもこの
ままじゃいけないんだと、今度は口に出
さずに心の中でつぶやいた。約束のない
休日を、ベランダを飾ることに費やして
良かったと美晴は思った。
 (回想)
 夜のレストランのざわめきが重なって。

高山

どうして?他に好きな男でもできたか?

美晴

‥‥違います。

高山

なんとなく分かるよ。君はまだ若いんだ、
日陰に咲いてるだけじゃあな‥‥

美晴

そんな風に考えたことはありません。

高山

そうか‥‥それならいいんだ。
  乱暴にグラスを置く音。
  同時に音楽なども消える

ナレ女

あんな風に言って欲しくなかったと、美
晴は思った。夜更けに高山のマンション
の前に独り佇んだ自分を思った。ベッド
の中で、身も心も開かれて軽くなってい
ったことを思った。それらの情景が美し
くセピア色に染まっていって欲しかった。
気に入った服が、シーズンを終えて、振
り向かれもしなくなる。精一杯愛した男
がそんな色あせた存在になって欲しくな
かった。
  音楽、消えて。

美晴

さあ、今度は植木屋か。気に入った、鉢
植えでも買おうかな。
  明るい音楽。

オヤジ

ベランダガーデニングやらはるんでしょ。
近頃のはやってるらしいね。そやけど、
主婦の人らが、そんなもんに凝るんはえ
えけど、お客さんみたいな若い人まで、
ハーブ育てて独りで気分よう暮らすっち
ゅうのは、なんや寂しいね。若い男はな
にさぼっとるんや。ま、オッサンの独り
言やから、気にせんといて。

美晴

ふふふ。

オヤジ

なんやの?

美晴

アタシのベランダができたら、オジサン、
ウチに招待しましょうか。金槌とかいろ
いろ貸してもらったし、なにかお礼しな
きゃ。

オヤジ

アホ言わんといて。独り暮らしの若い女
の子の部屋なんか入ったりしたら、ウチ
のオバハンにしばきたおされるがな。
【おしまい】