第70話 (97/08/01 ON AIR)
『夜のドライブ』 作:洞口 ゆずる

登場人物
松島さん
木本


木本 □ ボクタチは、真っ暗な山道を、頼り無げな
  ヘッドライトで照らしながら、トコトコとひ
  たすらトコトコと走っていた。吸い込まれる
  ような闇の中で、間の抜けたエンジン音だけ
  が響いた。ボクは、隣で気持ち良さそうに眠
  る松島さんを起こさないように、優しい運転
  を心掛けた。
音楽あるいは2CVのエンジン音
松島 □ ブリキ細工みたいな車だね。
木本 □ 大学の先輩の松島さんが、そう言ってくれた
  ので、ボクは松島さんをドライブに誘った。
  いや、正確に言うと、なんとかという名前の
  香りの強い紅茶を御馳走になっている時、
  松島さんが、一度乗せて欲しいと言ったので、
  ボクは『はい』と返事をしただけだったけど。
音楽あるいは2CVのエンジン音
木本 □ 松島さんは実際、雰囲気のある人だった。
  たわいのない会話のはしばしに、ボクが言う
  のも変だけど、センスがあると思う。彼氏と
  旅館!に泊まって、寝相が悪い自分を彼氏が
  布団に戻してくれたなんて話も、けして下品
  なストーリーに聞こえない。だってボクは感
  心して聞いていたのだから。いや、ちょっと
  ドキドキして、顔をあからめていたかもしれ
  ない。なぜなら、松島さんの肌は透き通るよ
  うに白かったから。
ゴトンと異音がして、エンジンが止まる
木本 □ やっべぇ~!
松島 □ (ウ~ンと伸びをして、少し呑気そうに目
  ざめる)あれ? 着いたの?
木本 □ いえ、ちょっと。
山の中。虫の声。遠く、川のせせらぎ。
ドアを開けて出、ボンネットを開けて調べる。
松島 □ 故障?
木本 □ いえ、すぐ直りますから。‥‥(小声で)
  おかしいな‥‥ラジエターか‥‥こんなこと
  今までなかったんだけどな‥‥
松島 □ アタシ、よく眠ってたでしょ。
木本 □ ええ、気持ちよさそうでした。
松島 □ おかげでオナカすいちゃった。
木本 □ じゃあ、なにか‥‥あ、こんなとこでなん
  にも食べられないか。
松島 □ いいよ。ゆっくりなおして。
木本 □ あ、はい!
山の中。
木本 □ ゆっくりどころか、故障の原因はまるでわ
  からなかった。不幸中の幸いというか、数少
  ない電灯のそばだったから、少しは車の様子
  をさぐることもできたのだけれど。ボクは松
  島さんにどう言ったものかわからなかったか
  ら、手と顔を油で汚した。
松島 □ いいじゃない、そのうち誰かが通るよ。
  それまでゆっくり待とう。
木本 □ でも、今まで対向車もなかったから、いつ
  になるか‥‥
松島 □ 山の中ってうるさいね。
木本 □ ええ‥‥まあ‥‥
松島 □ いっぱい命があるんだよね。むせかえるよう。
木本 □ ええ‥‥
松島 □ 向こうに川があるんだよね。
木本 □ ええ、きっと。
松島 □ 行ってみようか。
木本 □ ええ、でも。
松島 □ 昔の車って、水入れたら直るんじゃないの。
木本 □ まあ、そういう場合もありますけど。
松島 □ 水、とりに行こうよ。
木本 □ でも、危ないし。
松島 □ 平気々々、木本君、懐中電灯持ってたじゃない。
木本 □ あ、そうだ。忘れてた。
松島 □ ボンネットの中、暗いのに。
木本 □ その前に、懐中電灯でもう一度、見てみます。
松島 □ いいよ、後で。行こう。
木本 □ いや、でも、松島さ~ん。
木本 □ 松島さんは、大胆というか、真っ暗な中を、
  川のせせらぎのする方へずんずん歩いて行った。
  幸いそちらにはわずかの小道があって草むらに
  分け入る必要がなかったけれど‥‥
  そして、しばらく小道を下って行くと、生涯
  忘れられない光景にボクたちは出会ったのだった。
音楽
木本 □ 無数の光に包まれて、いったいどれほどの
  時がたったのだろう。ひとつひとつの頼り無
  げな光が、幾重にもかさなって、ボクたちを
  光の世界にいざなっていた。すべての音が消
  え、ボクの体の重さがなくなった。
音楽
木本 □ はっと我に返ると、松島さんはすすりあげ
  るようにして泣いていた。深い悲しみに肩を
  震わせ、惜しげなく涙を流していた。彼女の
  溢れ出る悲しみは、そこにとどまらず、無数
  の蛍の光が音もなく吸い込んでいた。ボクは
  なにも知らなかった。知りたいとも思わなか
  った。だから、なにも考えず、ただ感じた。
  無数の光よりもまして美しい悲しみを、時が
  たつのも忘れて。