第54話(97/04/11 ON AIR)
『木陰の庵』 作:桐口 ゆずる



ある早春の休日、郊外へ向けてひたすらオ
ープンカを走らせる。母に頼まれた用事だ
けれど、そんなことはどうでもいい。うら
らかな陽ざしを浴び、ひきしまった風に髪
をなぶらせているのが心地いいんだ。
  アクセルを踏む薫。

ダンプカーとすれ違う。
(咳き込む)ああ、まったく。ああ、ここ
が、イタリアの山岳道路だったら、イギリ
スのカントリーロードだったら。昨日まで
のハードワークを忘れ、明日の仕事への意
欲もわくというのに。(ため息)めりはり
のない自分の生活が曇って思い出される。
  ユーモラスな音楽。
薫の回想。
公園。
誠之介 めんごめんご。

もう、遅い~。

誠之介 コロッケ、喰う?
どうしたの?
誠之介 ここのコロッケ、美味しいねんで。めっ
ちゃ並んでミンナ買(こ)うてんねん。
じゃあ、誠之介、コロッケ、買ってたの?

誠之介 うん。どう?
いらない!

誠之介 あっそ。(食べはじめる)課長、あれ
なんとかならんのかな。人がせっかく足
を棒にして、営業まわってきたのにやで、
ほんま、薫のとこの上、どう?
なにが?
誠之介 ものわかりええかって?
誠之介が要領悪いだけじゃないの
誠之介 なにプンプンしてんの。な、な、今晩
どう?
どうって?
誠之介 二号線ぞいの、ほら、大橋渡ったとこ
に、めっちゃ、渋いホテル見つけてや
んか。
昼間っからなに。
誠之介 だから、デートの約束。・・・・
ちょっとは洒落たお店でも開拓してか
ら出直してきたら。アタシ、帰る。
誠之介 ちょっと、薫。薫!。
  カーオーディオのボリュームをたたきつけるように
上げる薫。
薫、一生の不覚。よりによって、どうし
てこんな男と・・・ルックス、ヤマアラ
シ。趣味、最悪。お金、こつこつ貯めて
る。ああ、まったく・・・小綺麗な分譲
住宅、畝がたてられ春野菜が芽吹き始め
た畑、牛舎、電信柱、悪趣味なカンバン、
冬の面影を残す山の木々。たまにしか見
ない郊外の景色が色あせる。身を焦がす
ような恋はもう訪れないのかしら。あれ
だけ苦しんだはずなのに、年上の男との
歳月がなつかしい。わがままで、アタシ
のことなんかちっとも考えてなくて、嘘
ばっかりついてたくせに、謎に満ちてい
た中年男。彼が家庭で見せるだろうよき
パパの笑顔に嫉妬ををつのらせた狂おし
い日々。夜の逢瀬に、朝から胸を高鳴ら
せ、その癖、会うときまって傷つき、涙
ながらに孤独な自分の部屋に逃げて帰っ
たこと。母についた嘘。友達の忠告。
  急ブレーキ。
たくま みずき、もうちょっとここの稲、
釜で刈ってくれ。ターンできひんねん。
横断歩道で身をすくめている小学生。ご
めんね。ダメ、変なこと考えちゃ。薫、
しっかりなさい。気をとりなおして、ア
クセルを踏み、車道から細い路地に入っ
た。たしか、このへんだと思うんだけど。
母から渡された地図を確かめる。あ、こ
んなところに・・・母の古くからの知り
合いだとうその初老の夫婦は、農家の離
れを借りて、細々と陶芸で生業(なりわ
い)をたてていた。村落の端に位置しな
がらも、僅かの木立のおかげで、隔絶さ
れた趣のある小さな家。ごめんください
と土間に足を踏み入れるとご主人がニコ 
ニコして迎えてくれた。慎ましい部屋は
民芸調の茶箪笥がひとつ、高価ではない
が厭味のない座卓がひとつ。奥さんが入
れてくれたほうじ茶の香りにも似て、心
から落ちつくようなこの雰囲気はいった
いなんだろう。旧知の間柄のように親し
く語りかけてくれる老夫婦に導かれて、
仕事のこと、彼のこと、両親のことを喋
った。ふたりはけして忠告めたいことを
言わない。ただ、当たり前のように相槌
をうつだけ。知らない間に時がすぎてい
った。あ、アタシ、そろそろと暇乞いを
して、玄関先で、また、来てもいいです
か、自然にそんな言葉が出た。すると、
ご主人が、今度はお二人でいらっしゃい
と言う。私たちは、御夫婦一緒にお付き
合いすることにしているのと、奥さんが
つけくわえる。一瞬、戸惑うアタシに、
ご主人が、その朴念仁の彼と、と笑う。
アタシは、はい、と歯切れよい返事を返
してしまった。
  帰路。アクセルレスポンス。

風が冷たい。幌を上げようか。いや、こ
のままでいい。少しヒーターを効かせて
顔一杯風を受けて帰ろう。それにしても、
さっきまでアタシが味わっていたあの贅
沢な時はいったいなんだろう。農家の離
れに住む無名の陶芸家夫婦の暮らし。さ

っきは気づかなかったけれど、あの家は
ずいぶん小さなはず。きっと冬は凍え、
夏はエアコンもきかないのだろう。でも、
豊かな雰囲気のある暮らし。よ。

  短い想像が連続する
誠之介 マスター、マティーニを二つ。キミの唇
にはきっとマティーニノグラスが似合う。
今年の夏はギリシア(ギリシャではなく
て)の白亜のテラスから、地中海の夕日
を二人で眺めてみたいね。
ハハハ、バッカみたい。誠之介には一生
似合わないよ
誠之介 キリッ、モリモリッ、ズコーン、グニュ
どうオレの、肉体美。あれ~、ひょっと
して、薫って、こっちのほう興味ないと
か。女って、そうなん、そういうモンな
ん?
今度、そんなこと言ったら、ひっぱたい
てやろうか。それとも、乱れ狂ってやろ
うか。目を丸くする誠之介に、修行が足
らないわねと言い捨てて、一人でホテル
を出る。ハハハ、バッカみたい。身を焦
がすような恋。目の前の平凡な男。キー
プ君?ハハハ、それもいいか。
  クラクションを鳴らす薫。
ちょっと、そこのクラウン、なにトロト
ロ走ってるの。お先に失礼するわよ。
  走り去るオープンカー。