第49話 (97/03/07 ON AIR)
『鏡の男』 作:み群 杏子



盗まれてしまった自転車の鍵や貰ったま
まで期限がきれてしまった映画の招待券、
旅行するたびに増えていく写真、パンフレ
ット、案内の書類。持っていてもしかたが
ないのに、捨てるにしのびないものって言
うんだろうか、部屋の中が片づかないのは、
そんなものばかりが溢れているせいなのだ。
クローゼットの奥、本棚の後ろ、机の上、
食器棚や流し台、バスルームまでも一杯
になって、私は棚や引き出しを整理するこ
とばかり考えている。今夜だって、気がつ
けば、もう何時間も座りこんだまま、そん
なガラクタたちと格闘していたのだ。
やれやれ、ちっとも片づいてないじゃない
か。
ふと声がして振り向くと、鏡の中に、いつ
ものあいつがいた。
うるさいなぁ。なんで、夜になると出てく
るのよ。
だって、鏡の中は、退屈でしょうがないん
だぜ。
もう、何年になるだろう。この古い姫鏡台
の中に、男が住んでいることに気がついて  
から。
俺はずっとここにいたぜ。お前のおばあち
ゃんのなぐさみ者だった時もあったし、お
前のおふくろのかくし男だった時もあった
んだからな。
古い鏡台は、私の祖母が使っていたもので
それを母が譲り受け、今は私が使っている。
鏡に向かって化粧をする時、女は最上の笑
顔を浮かべるんだ。まるで大切な思い人に
笑いかけるようにね。
たしかに鏡の中には男がいるのだ。それは
女たちの満たされない情念がつくり出した
幻の男だ。
片付けなんてやめちゃって、俺と遊ぼうよ。
女はいつだって鏡の男の誘惑に負ける。
それでいて、鏡の向こうに行こうとはしな
いのだ。
ねえ、私のおばあちゃんの時も、あんただ
ったの?
中身は俺だけど、外見は今の俺とは違うん
だ。おばあちゃんの作り出した男は、もっ
と二枚目だったよ。歌舞伎役者のダンジュ
ーローとかいうのに似ていたな。
じゃ、母さんの時は?
クラーク・ゲーブル。
なによ、あんたが一番ひどいじゃない。
お前の好みだからさ。しょうがないだろ。

鏡に向かうと、流れ出す水がある。川の
ような、愛のような、とめどない流れ。
私はその流れの中で口紅を引いている。
口紅はいつ、向こう岸まで辿りつくのだ
座っているあしのうらが冷たい。正座す
るとお尻の方にじわじわと移っていく。
つめたくなったお尻は、おとこの手があ
たためてくれる。手は胸が、胸は唇が。
片づかない感情が、あたためあって、あ
ふれて、鏡の向こうとこっちで、通いあ
っている。