第9話 (96/05/31 ON AIR) | ||
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『靴の音』 | 作:冬乃 モミジ |
僕の目の前には、広いアスファルト。大きなスクランブル交差点。 交差点は、一固まりの車の発進音と一固まりの人の靴音を、 きちんと交互に繰り返す。 |
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彼女 | 「あーあ、走って損したね。」 彼女だ。ビルから駆け出してきたけど信号には間に合わなかった。 |
彼女 | 「さて、何食べよ。」 同僚と一緒に昼飯か…。そば。 |
彼女 | 「うどんにしよか。よし、決まり。あ、青や。」 外れたか。 僕の仕事は90cm四方の箱の中。鉄の骨組みの外に深緑色の ビニールテントをかぶせてある。地上から20cm程のところに 床。左右には小さな窓があって、「靴修理します。」の札が かけてある。中には色んなものがぶらさがってる。靴墨、 靴ヒモ、靴の底、タオル、ホウキ。床にも、くぎ、金槌、やすり、 ブラシ、修理中の靴。その中に僕は座って、日がな一日仕事を するんだ。 |
修理男 | 「あ、あー、すぐ、すぐ済むから。」 客が手元を見ている。裏から見てもひどく横に広がっているのが わかる黒い革靴。 |
修理男 | 「はいよ、600円。」 その点、彼女はいい。きちんと靴を履いている。スウェードには ブラシをかけ、革靴には磨きがかかっている。うん、いい。いい。 僕は沢山の靴をなおし、沢山の人としゃべる。道を尋ねられたり、 時間を聞かれたりもする。近くの幼稚園の子供は行列で、全員挨拶を する。「さよなら」「はいさよなら」「さよなら」「はいさよなら」 「さよなら」「さよなら」… 延々続く。30人位続く。 (交差点のノイズと作業の音) |
彼女 | 「あの。」 |
修理男 | 「はい…!」 (彼女が立っている) |
彼女 | 「ヒールのここのところが取れちゃって…そういうの出来ます?」 |
修理男 | 「ああ…そりゃ。」 |
彼女 | 「あの。」 |
修理男 | 「とりあえずぬいで、そこのツッカケ履いといて。」 |
彼女 | 「あ、はい。…どれくらいかかります。」 |
修理男 | 「あー、これ済んだら次やるから。そっちもぬいどいてな、 両方やるから。すぐ出来るから。」 |
彼女 | 「あ、はい。」 |
修理男 | 「…。」 (道を聞かれる) |
修理男 | 「え?あー、その角曲がって左。」 |
彼女 | 「…かかとが取れるとこんなに歩きにくいもんなんですね。」 (また道を聞かれる) |
修理男 | 「通り渡って坂降りたら右手。…僕は、かかと取れたまま歩いたこと ないからなぁ。」 |
彼女 | 「あー…。…よく道きかれるんですか。」 |
修理男 | 「あーまぁ。」 |
彼女 | 「…これから暑くなると大変ですよね。」 |
修理男 | 「あーまぁ。(また道をきかれる)あー、この道まっすぐいったら 看板が見えてくるから。」 |
彼女 | 「…。」 (作業の音と交差点のノイズ) |
修理男 | 「はい。」 |
彼女 | 「あ、ありがとう。」 |
修理男 | 「…きれいに靴履いてんな。」 |
彼女 | 「え?…そうですか。」 僕はいつもより、ちょっと丁寧にくぎを打ち、いつもよりちょっと 余計に磨き上げた靴を差し出す。 |
彼女 | 「ありがとう。」 彼女は、少しかがんで靴を履くと、嬉しそうに靴のかかとで アスファルトを鳴らした。 交差点は、あいかわらず同じことを繰り返す。 今日はいい天気だ。 |