第224話 (2000/07/14 ON AIR) | ||
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『珠子』
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作:(冬乃モミジ改め) 原尚子 |
小学校にあがるまで、二軒棟続きの木造の、言ってみればちょっとした |
向かって右が珠子の家、左側には、体格のいいお爺さんが一人で住んで |
午後になると、野菜やら魚やら、卵やら、行商のおばさん達がやってく |
一つ年上の兄は、毎日何かしら小さなケガをして帰ってくる。勢いこん |
白黒テレビは父さんの好きな時代劇と、かあさんのすきな歌謡番組。兄 の好きなシャボン玉ホリデー。 |
4才の時、両親が離婚した。 「おいで、たまこ。」とかあさんが呼ぶ。眼の見えないかあさんは、腕 をのばして小さな肩を確かめると、背の高さをあわせるようにストンとそ の場にしゃがんだ。珠子のほっぺたを、柔らかく手が包む。ゆっくり、指 先で覚えるように、珠子の顔を眼の見えないかあさんの指がなぞっていく。 卵や、赤チンや、家の中の色んなものの形を覚えているかあさんの指が、 珠子の顔をなぞっていく。時間が止まったような不思議な感覚の中で、初 めての〈別れ〉というものに、何も言えずにただ、ただ、じっとしている しかなかった。 |
新しい家は、二階の窓から布団が干せた。珠子の部屋もある。大きな桜 の木が一本見えた。 新しい母は、珠子を見てにっこり笑った。よく太った人だ。「よろしく ね。」と言い、それから「何でも言ってちょうだいね。」と付け加えた。 |
自転車に乗れないという母のために、小学校の校庭で練習をする。兄は、 買ってもらった自転車でグルグルと校庭を走り回っている。それを借りて 珠子も乗ってみる。 こわがりの母より、珠子のほうが早く自転車に乗れるようになった。 肘や膝にすり傷が出来ている。父さんが笑っている。母も笑っている。 兄も、珠子も笑っている。 |
「あら、たまこちゃん。久しぶり、大きくなったねぇ。」学校から帰っ てきた珠子に、ある日、伯母が言った。遠い町の菓子包を三つも持って数 年振りにやってきた伯母は、父さんの姉にあたる。何でも大げさに話す。 きっと珠子が帰ってくる一時間も前から、そしてこの後、一時間経っても、 伯母の話しは続きそうである。 |
伯母さんの声が次第に意味のない音になりはじめた。珠子の頭のなかで、 「大きくなった。」という言葉が繰り返された。 「大きくなった。」「大きくなった。」 その言葉が、珠子の中で、大きくなっていった。 |
珠子は立ち上がり、その部屋を出て、二階に上がった。 自分の部屋に入り、鏡をみた。 「大きくなった。」と、言ってみた。 「大きくなったら、いけないのに。」と、思った。 「どうしよう、大きくなったら、かあさんが私のことをわからなくなる。」 |
桜の木は、春になると、みごとな花を咲かせた。夏になると、そこで蝉 をとった。秋、冬と次の機会をうかがい、翌春にはまた、時を得たように つぼみを膨らませた。 ある年、桜の木は根元の方からバッサリと切り倒された。 「虫が喰っちゃってたんだって。」と、母が言った。 部屋からの風景は、随分と間の抜けたものになった。 |
窓際の席から、校庭でソフトボールをしているのが見える。薄ぼんやり とした教室と比べて、外は明るく、光と影がはっきりしていて眩しいくら いだ。珠子は高校生になった。 かあさんの手は、4才の珠子の顔をまだ覚えているだろうか。 |
いつか、もし会うことがあったら、こう言おうと思っている。 「こんにちは。珠子です。大きくなったでしょ かあさん。」 「はい 父と 母と なかよく やっています。」 |