第224話 (2000/07/14 ON AIR)
『珠子』

  

作:(冬乃モミジ改め)
原尚子


 小学校にあがるまで、二軒棟続きの木造の、言ってみればちょっとした
長屋が珠子の住居だった。玄関を入るとそのまま土間になっており、右手
に六帖ほどの部屋が二間あり、一番奥が台所。柱に釘が打ち付けてあり、
籐でできた買い物かごが掛けてある。土間はいつでも少しひんやりとして
いる。
真ん中の部屋の隅には、白黒テレビが置いてある。家族はここで寝起きす
る。父さんと、かあさんと、一つ年上の兄と、そして珠子。

 向かって右が珠子の家、左側には、体格のいいお爺さんが一人で住んで
いた。窓から覗くと、大抵は碁の練習をしている。お爺さんは珠子を見つ
けると、のっそり立ち上がり近づいてくる。ひょいと窓から入れ、傍らに
座らせるとまた、碁の練習をはじめるのである。工場の機械に巻き込まれ
たんだというお爺さんの何本か指は、不規則に短い。パチンパチンと器用
に碁石を置いていく、その、途中でつるんと丸く終わってしまった指は、
まるでそれぞれが違う生き物であるかの様な印象を珠子に与えた。

 午後になると、野菜やら魚やら、卵やら、行商のおばさん達がやってく
る。白菜や葱の入った篭を背負った野菜売りのおばさん。日本手拭を首に
かけている。魚売りのおばさんは、フタ付きのブリキの手押し車でやって
くる。いつもひどくつまらなそうな顔をしていて、「今日は鰺のええのが
あるよ。」とか「奥さん、晩はタコにしといたらどうね。」とか、とても
つまらなそうに言うので、珠子にはブリキの中の魚がとてもつまらないも
のに思えた。卵売りのおばさんは、かあさんと仲がいい。両手で卵の入っ
た篭を抱えている。玄関先でかあさんの笑い声が聞こえる。小さなボール
に卵を4個入れてもらっている。

 「おいで、たまこ。」とかあさんが呼ぶ。「いつもの所にこれ置いてきて、
わらんようにね。」珠子は、注意深く土間を進み、敷居をまたぎ、台所の
いつもの棚にそのボールをそぉーっと置いた。

 一つ年上の兄は、毎日何かしら小さなケガをして帰ってくる。勢いこん
で今日一日のことを話はじめる兄を、かあさんはしかりながら、引き出し
から赤チンを取り出して渡してやる。眼を閉じたまま、楽しそうにため息
をつく。

 白黒テレビは父さんの好きな時代劇と、かあさんのすきな歌謡番組。兄
の好きなシャボン玉ホリデー。 
 4才の時、両親が離婚した。
 「おいで、たまこ。」とかあさんが呼ぶ。眼の見えないかあさんは、腕
をのばして小さな肩を確かめると、背の高さをあわせるようにストンとそ
の場にしゃがんだ。珠子のほっぺたを、柔らかく手が包む。ゆっくり、指
先で覚えるように、珠子の顔を眼の見えないかあさんの指がなぞっていく。
卵や、赤チンや、家の中の色んなものの形を覚えているかあさんの指が、
珠子の顔をなぞっていく。時間が止まったような不思議な感覚の中で、初
めての〈別れ〉というものに、何も言えずにただ、ただ、じっとしている
しかなかった。 
 新しい家は、二階の窓から布団が干せた。珠子の部屋もある。大きな桜
の木が一本見えた。 
 新しい母は、珠子を見てにっこり笑った。よく太った人だ。「よろしく
ね。」と言い、それから「何でも言ってちょうだいね。」と付け加えた。 
 自転車に乗れないという母のために、小学校の校庭で練習をする。兄は、
買ってもらった自転車でグルグルと校庭を走り回っている。それを借りて
珠子も乗ってみる。 
 こわがりの母より、珠子のほうが早く自転車に乗れるようになった。 
 肘や膝にすり傷が出来ている。父さんが笑っている。母も笑っている。
兄も、珠子も笑っている。 
 「あら、たまこちゃん。久しぶり、大きくなったねぇ。」学校から帰っ
てきた珠子に、ある日、伯母が言った。遠い町の菓子包を三つも持って数
年振りにやってきた伯母は、父さんの姉にあたる。何でも大げさに話す。
きっと珠子が帰ってくる一時間も前から、そしてこの後、一時間経っても、
伯母の話しは続きそうである。 
 伯母さんの声が次第に意味のない音になりはじめた。珠子の頭のなかで、
「大きくなった。」という言葉が繰り返された。 
 「大きくなった。」「大きくなった。」
 その言葉が、珠子の中で、大きくなっていった。
 珠子は立ち上がり、その部屋を出て、二階に上がった。
 自分の部屋に入り、鏡をみた。
 「大きくなった。」と、言ってみた。
 「大きくなったら、いけないのに。」と、思った。
 「どうしよう、大きくなったら、かあさんが私のことをわからなくなる。」 
 桜の木は、春になると、みごとな花を咲かせた。夏になると、そこで蝉
をとった。秋、冬と次の機会をうかがい、翌春にはまた、時を得たように
つぼみを膨らませた。
 ある年、桜の木は根元の方からバッサリと切り倒された。
 「虫が喰っちゃってたんだって。」と、母が言った。
 部屋からの風景は、随分と間の抜けたものになった。
 窓際の席から、校庭でソフトボールをしているのが見える。薄ぼんやり
とした教室と比べて、外は明るく、光と影がはっきりしていて眩しいくら
いだ。珠子は高校生になった。 
 かあさんの手は、4才の珠子の顔をまだ覚えているだろうか。
 いつか、もし会うことがあったら、こう言おうと思っている。
 「こんにちは。珠子です。大きくなったでしょ かあさん。」
 「はい 父と 母と なかよく やっています。」