第210話 (2000/04/07 ON AIR)
『月夜』

  

作:久野 那美

ひさしぶりに外へ出ると、しんと冷えた夜の空気はいつの間にか消えていて。
なま暖かい風がのったりと吹いていた。
夜桜が白く闇に浮かんでいた。
聞き覚えのある低い音が、遠くから聞こえてきた。
のぼり切った坂の向こうに月が見えた。

ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…

道の向こうから、一心に坂道を転がって来る月が見えた。

ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…。

どこも傷んでいない、どこもへこんでいない。

 

ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…。

かんぺきなまんまるだった。

ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…。

女 

同じ速さで、同じリズムで、たんたんと、月は転がって来た。

ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…。

輪郭はほんとうに大きくて、曲面は鈍く銀色に光っていた。

ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…。

月が道をふさいでいるので、向こう側は何も見えなかった。

ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…。

………そうだった。

ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…。

こんな月の夜がときどきあった。

ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…。

女 

すっかり忘れていた。

ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…。

ひとつきに一回。月はこんなかたちになる。

月 

ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…。

だけど、なかなかこんな風に会えない。

ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…。

空を見るのを忘れてるから。

ごろん、ごろん、ごろん、…ごろん。(だんだんに大きくなり、停止する)

女 

月は転がるのをやめて、私の目の前で止まった。
路沿いにならんだ桜の木が、月明かりに照らされてぼんやりと光っていた。

女 

こんばんは。

 …。

女 

満月だったんですね。今夜。

…。

桜が開きましたね。

 …。

あなたがいると、夜の桜がきれいに見えます。

…。

女 

おひさしぶりです。

…。

…わかってます。ひとつきに1回、あなたは必ずこんな形になる。

…。

私がずっと忘れてただけ。

…。

今夜誰かに会うなんて思わなかったから。

…。

あなたはいつも、そんな夜にやってくる。

…。

女 

わかってます。ひとつきに1回、あなたは…。

…。

覚えてますか?私のこと。

…。

覚えてないかもしれません。あなたはいろんな人に会うから。

…。

だけど、………………私は、覚えてます。

…。

いつもは忘れてるけど、会ったときだけ思い出します。

夜中の校庭をごろんごろん横切っていくあなたを、屋上から見ていた夜。

…。

女 

踏切の向こうに、あなたを見つけて立ち止まった夜。

…。

女 

…帰るところがなかった夜。

月 

…。

見上げると真っ暗な闇があって。
まんまるなあなたはそうやって一心に転がっていました。

月 

あなたの周りはぼんやりと明るくて。

女 

だけど輪郭はくっきりとかんぺきにまるかった。

…。

女 

世の中にこんなにまんまるなものがあるなんて。

なんだかね。それがとっても可笑しくて。

…。

偶然だったんでしょうけど。あの夜も、あの夜も。
月 

だってあなたがまんまるになるのはひとつきに1回だけ。
それもいつも決まった夜に。

でもね。偶然でもまんまるだった。
あの夜も。あの夜も。

…。

こんばんは。って私は言ったけど。

…。

女 

あなたは何も答えてくれなかった。

…。

あの夜も。あの夜も。

…。

女  無愛想に。
…。
女  

あなたに会ったっていうことは…。
私は今夜、また空を見てたんでしょうか。

 間

女 

私は、それ以上話しかけるのをあきらめた。
……気がついたのだ。そこはすれ違うには狭すぎる道だった。
壁に張り付くようにして、月のために道を空けた。

月  

ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…。

月は転がっていった。先は下り坂だ。だけど同じ速さで、だけど同じリズムで、月は同じように転がっていった。
大きな音を立て、一心に転がっていった。

ごろん、ごろん、ごろん、ごろん…

音は少しずつ小さくなっていった。あたりはまた、少しずつ暗くなった。

銀色のまんまるがだんだんにだんだんに小さくなって、闇の向こうへ消えていくのを。
…見えなくなるまで見ていた。音だけはいつまでも耳に残って離れなかった。
あの夜がそうだったように。
あの夜がそうだったように。

こんな月夜がときどきあった。
世の中に、あんなにもまんまるなものがあったのだということを、
ふっと思い出す夜。

月のいなくなった道を、ゆっくりゆっくり歩いた。
桜はまだほんのりと白かった。
ごろん、ごろん、ごろん、ごろん、
帰ってぐっすり眠ろう。あの音を聞きながら…。

…………こんな月夜がときどきある。
……………………………