第205話 (2000/03/03 ON AIR)
『バス』 作:久野 那美



女(N)さよならを言って外へ出た。
見慣れた風景のはずなのに、何もかもが違って見えた。
坂道をだらだらと下る。
バス停でバスを待つ。最後のバスを待った。

     向かいのバス停でバスをおり、初老のが
     こちらへ歩いてきた。
     男は女に気づいてふと笑いかけた。

 あ…

 こんにちは。あったかくなりましたね。

 …そうですね…。

 よく、お会いしますね。

 …そうですね。

 なかなか、時間通りに来ませんからね。

 …。

 若い人にはめんどうでしょう。どこへ行くにもバスで15分。

 バスに乗るの、好きですから。

 そうですか。

 …

 近くにお住まいですか?

 いえ…………。引っ越すんです。………今日。

 ああ。そうなんですか…。

 ええ。

 そうか…………。

 何か?

 残念ですね。

 え?

 いえ。ここであなたに会うのがちょっと楽しかった…。

 ?

 4年前。初めてここでお会いした時から…

 …。

 ああ。いや…、すみません。

 …4年前?

 ええ。たしか4年前。ちょうど今頃ですよ。こんな風にあった
 かい日でしたから。

 そんな前のこと…(覚えてるんですか?)

 覚えてませんか?

 え?

 私に道を尋ねたの…。

 え?

 バスを降りたあなたが向かいのバス停から歩いてきて。困った
 顔で、あたりを見回して。
 私を見つけると近づいてきて、小さな声で尋ねました。
 「あの…ここは何丁目なんでしょうか?」

 あの…

 私が道を説明すると、あなたは大急ぎで、走ってその坂を上っ
 ていきました。

 …そう…ですか…。

 覚えてないですか?(笑っている)

 すみません。どうもありがとうございました。

 …いえ。ずっとお礼をいいたかったのは私の方ですから。

 え?

 あの時、あなたが地図を片手にバスを降りてきたとき…(照れ
 笑いをしている)

 …?

 亡くなった家内のことをふと思い出しました。

 ???

 会ったばかりの頃、よくバス停で待ち合わせをしたんです。
 いつもなぜかきっちりバス3台遅れてやってくる彼を、私は
 バス停で待っていました。

 …

 冬の寒い日はつらくてね…。
 結婚して、もう外で待ち合わせをする必要がなくなったときは、
 ほっとしました。

 (笑っている)

 ずっと忘れてたんですよ。そんなこと。

 …

 もう30年も。

 …。

 一度だって思い出したりしなかった。一緒に暮らしている間も、
 いなくなってからも。

 …

 一緒にいるあいだは何も思い出したりしなかったし、死んだあと
 は最後の時間ばかりが頭の中にありました。

 …

 あの日偶然あなたにここで会ってから。やっと思い出すようにな
 りました。知り合う前のこと、会ってからのこと、結婚したばか
 りの頃のこと…。

 …

 それから。春が来るのが苦にならなくなりました。

 亡くなられたのは…。

 3月のはじめです。

 …

 ですけど、はじめて会ったのもこの季節でした。

 

      間

 私…奥さんに似てますか?

 いえ。あなたのほうがずっときれいですよ。

 (笑う)どうもありがとうございます。

 あなたがきっかけをつくってくれました。どうもありがとう。

 偶然です…。私は何も…。私も、その日……

    遠くから、バスが近づいてくる。

 …バスが来ましたよ。

 はい。

 それじゃあ。気を付けて。……お元気で。

 ありがとうございます。

 

    男はバス停に背を向けて歩き出す。
    バスが止まる。ドアが開く。はバスに乗り込む。
    舗装された広い道をバスはゆっくりと下っていく。
    女(N)バスは駅へ下る。バス停はどんどん遠くなる。
    これは「行きのバス」?それとも「帰りのバス」?
    いろんなものがどんどん、どんどん遠くなっていった…。

 

    初めてこのバスに乗った日があった。
    「はじまりの日」が確かにあった。とてもあたたかい日だった。
    でもそれを。今はどうしても思い出せない。何よりも遠くにある。
    いくつ目かの春と一緒に、ふっと戻ってくるんだろうか。
    そのときわたしはもう、別の「はじまりの日」の中にいるだろうか。

 

    失くした時間は「おしまいの日」で始まって、
    「はじまりの日」で終わるのかもしれない。

 

         春風の中。バスは坂道を下っていく。

 おしまい